1: 全身が重い皮膚病の者
今日の箇所では、全身重い皮膚病にかかった人が登場します。当時は、ユダヤの律法において、この重い皮膚病の者は隔離され、社会の中に入ることは許されていませんでした。旧約聖書のレビ記にはこのようにあります。【重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。】(レビ記13:45-56)ここでは、重い皮膚病の者は「わたしは汚れた者です」と自分で言わなければならないとし、「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とします。当時は、現在ほど医療が発達しておらず、皮膚病の原因、また感染ルートなどがわからない状態でした。そのため、社会に重い皮膚病が拡がらないための伝染病の予防処置として記されたものです。しかし、この言葉によって多くの人々が傷つき差別されることとなり、この律法は、結局のところ、多数を守るために、少数者を切り捨てるものとなってしまったのです。重い皮膚病の人は「汚れた者」とされ、「社会に関わること」を拒否され、家族と一緒に住むことも許されず、独りぼっち、孤独に生きる者とされたのです。
今日、登場した人は、ただの重い皮膚病ではなく、「全身」が重い皮膚病とされていたのです。ここでの「全身」という言葉は、もちろん体のすべてが重い皮膚病であったことも意味するでしょう。そして同時に、この「全身」という言葉は、人間としてのすべて、その体だけではなく、その心も含めたすべて、その存在のすべてが否定され、拒否されていたとも見ることができるのです。これが、この全身重い皮膚病にかかった者の現実でした。それこそ、それはとても重く、その人の心にのしかかり、悩み、悲しみ、絶望を与える状態であった。それほど大きな差別を受けていたのです。
2: 差別のなくならない社会
この時、全身が重い皮膚病になっていた者は大きな差別を受けていました。それから2000年以上経った今は、そのような差別はなくなったでしょうか。ここで「重い皮膚病」とされる言葉は、これまで、聖書の訳では特定の病気を指した言葉が用いられ、多くの差別を生み出してきました。この皮膚病に関してだけ言えば、きちんとその病気を理解することで、差別は改善されてきました。それでも、2000年もたった今も、人間は差別することをやめない、差別することをやめることが出来ないでいるのです。現在も、人種差別、性差別、障がい者への差別、宗教による差別、階級や学歴、職業による差別など様々な差別があります。日本では、憲法の14条において、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(日本国憲法第14条1項)とあり、基本的の尊重として、差別的な扱いをすることを禁止しています。しかし、それでもこの社会において、差別がなくなっているとは到底思えないのです。
現在、ある宗教団体に関わる人が、もと日本の総理大臣であった人を銃撃したことから、その宗教団体への非難が集中しています。このことに関して、何が悪くて、どうしたらよいということを、ここでは話すべきではないと思いますが・・・このことから、ただ純粋に、神様を信じるということ自体が社会から否定され、神様を信じて生きるということが、受け入れられない状況になり始めてしまっているのです。
また、私たちにとって身近な問題として、新型コロナウイルスが拡がる中で、マスクをすること、しないこと、ワクチンを打つこと、打たないことによる差別、偏見も生まれているのです。この問題で難しいことは、「自分の自由だ」ということだけでは収まらないということです。マスクをつけるもつけないも、ワクチンを打つも打たないも、自分の判断によっては、この病気が拡がってしまうかもしれないということです。そのため、どうしても、周りの人も、「こうしてほしい」「こうしなければならない」「自分勝手」と思ってしまう。そこに、この問題の難しさがあるでしょう。
差別とは・・・という定義はとても難しいとされていますが、一つには、何かを持つ者、何かに所属する者を特別に扱うことなどとされていました。特別・・・、わかり易く言うならば、人間が、自分よりも弱い者を作り出し、その存在、人格を否定していくこと。そこから共に生きるのではなく、孤独な者を作り出していくということが出来ると思うのです。
3: 隔たりを越えて来られたイエス・キリスト
今日の箇所において、全身が重い皮膚病となった人は、まさに差別され、その存在を否定され絶望の中に生きていたのです。この人は12節において、【「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」】(5:12)と言いました。この時、この人は、「御心ならば・・・」と言いました。それこそ、この人は、イエス様がこの病気を癒すことができないとは考えていなかった。むしろそれが御心なのかどうかが問題としていたのです。この全身が重い皮膚病となっていた人は、社会でその存在を否定され、生きる意味を見失う中で、「なぜ自分はこのような状態にあるのか」「これが神様の御心なのか」「自分は神様に見捨てられているのか」「神様は、救い出すことができないのではなく、自分に、このように差別されたまま生きることを求められているのではないか」と、・・・自分は、神様の御心によって、このようにされている。神様から自分は見捨てられたと思っていたのではないでしょうか。それこそ、自分は神様に裁かれた、神様に捨てられた、自分には生きる価値がないと強く思っていたのではないかと思うのです。だからこそ「御心ならば・・・」と言い、それは「あなたの御心はどこにあるのですか・・・」という問いがあったのではないかと思うのです。
この重い皮膚病にかかっている人に、イエス様は手を差し伸べられ触れられた。そして「よろしい。清くなれ」と言われました。イエス様は、この差別され、誰ともかかわりを閉ざされた者に手を差し伸べられ、その人に触れられたのでした。この重い皮膚病にかかっている人にとって、イエス様との距離はどれくらいあったのでしょうか。物理的には、目と鼻の先、手を差し伸べれば届くところにイエス様はいたのでしょう。しかし、この人は、自ら手を差し出すことはできませんでした。そこには大きな隔たりがあったのです。この人は、この病気にかかった時から、誰ともかかわることを禁止されてきたのです。そのため、すべての人と関わることが遮断されたのです。家族も友人も、そして社会のすべての人と。この人と、他の人との間には、見ることのできない大きな壁、隔たりが出来ていたのです。この人とは、周りの人々すべての者にとって、決して越えることのできない大きな隔たりがあったのです。しかし、イエス様は、手を差し伸べられ、触れてくださった。つまり、その誰も越えることのできない大きな隔たりを、イエス様が越えて来てくださったのです。ここに神様の愛が示されたのでした。
イエス様は、人間の孤独の心、差別され、存在さえ否定される中での苦しみ、その痛み、その絶望のうちに、手を差し伸べてくださるのです。それは、イエス・キリストご自身、自らが傷つき、痛みを伴う行為です。この、だれも越えることのできない、隔たりを越えるために、イエス様は十字架で死なれたのです。まさに命をかけて、イエス様は、その私たちの痛みを共に痛み、共に生きる者となってくださり、私たちを孤独から解放してくださるために、手を差し伸べて下さったのです。これが神様の愛です。それほどに、神様は、私たちのことを愛してくださっているのです。
4: 生きる道が造られた
イエス様は、手を差し伸べられ、そして「よろしい。清くなれ」と言われました。この「よろしい」とは、別の訳として「私が意志する」と訳されます。つまり、イエス様は、この人が清くされ、癒されることを意志したのです。神様は、この世界を創造されるとき、そこに意志を持ち「光あれ」と言い、光を創造されていきました。ここに神様の意志と創造の業がなされたのです。同じように、ここでは、「私が意志する」と言い、「清くなれ」と言われたのです。この全身が重い皮膚病とされた者は、このイエス様の意志と業によって、清くされた。それは、このイエス・キリストによって、新しく造られたということなのです。この時、この人は、「清くされた」。それはただ皮膚病の癒しだけではなく、人間として生きること、生きる意味、存在の意味を与えられたのです。
イエス様の癒し。それはただ体が癒されることを与えられたのではありません。イエス様は、その人が生きる道を造られたのです。それこそ差別され、存在を否定され、生きることに絶望していた者に、生きる意味を与え、その存在を喜ぶ者とし、そして差別ではなく、共に生きるという価値観を与えられたのです。これがイエス・キリストの意志。本当の意味での清さです。
5: 恵みの律法に従い生きる
この後イエス様は【「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」】(5:14)と言われました。イエス様は、この癒しの出来事から、当時の律法に従い、清められた者として生きていきなさいと言われたのでした。人間の心の貧しさは想像を超えています。それこそ、人間の社会では、いじめられていた者が立場が変わる時、そこから一緒に生きることよりも、逆にいじめ始めること、差別されていた者であれば、そこから力関係が変わる時に、共に生きるのではなく、逆に、差別する者となることが多々あります。そのような人間に、イエス様は神様がモーセ・イスラエルの民に示された定め、つまり、当時の律法に従って、歩みだしなさいと言われたのです。イエス様は、これまで自分を苦しめ、自分の存在を否定し続けた社会の根底にあった律法。その教えを破壊するのではなく、そこから律法に従い始めることを教えられたのです。律法は、本来、ユダヤの民が神様の恵みを受け取るために定められたものです。イエス様は、この律法をもって差別する人々に、本当の意味での律法の理解をすること、神様が、愛してくださり、その愛を受け取るためにある教えとして受け取ることを願い続けられているのです。
私たちは、今、ここで神様の愛を頂きたいと思います。私たちのために、手を差し伸べてくださる方、イエス・キリストによる愛、共に傷つき、共に生きて下さる神様の愛を頂きましょう。そして、そのときに、私たちがどのように生きるのかを考えていきたいと思うのです。(笠井元)