1: 再臨という希望
パウロは、自分が天に召される前にイエス・キリストが再び来ると考えていました。当時は大きな迫害、苦難を前に、イエス様が来られるという希望を持っていたのです。2000年ほどが経ちました。未だイエス様は来られません。現在、イエス様が「今、来る」と考えている人はいるでしょうか。イエス様の再臨は恐怖の裁きの時ではありません。イエス様の再臨によって死・罪に対する、最終的な勝利の時が来るのです。この世界は理不尽なことばかりです。生きる希望を失ってしまいます。そのようなときにこそ、私たちは、イエス・キリストがいずれ必ず来るという希望をもって日々の生活を送りたいと思います。再臨はいわゆる極楽のようなものがやってくるということではなく、神様の愛の業の完成の時です。
2: 朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない
【肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。】(15:50)コリントの人々も同じように「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」と考えていました。ただ、コリントの人々は、ここから「死んでいない者は、どうなってしまうのか」と考え「自分たちはすでに復活を受け取っている」と考えたのです。コリントの人々は、救いは神様の一方的な愛によるものであるということを忘れ、また将来的な希望を見失ってしまったのです。
3: 神様の神秘の業
パウロは、復活において体のよみがえりを主張しました。ユダヤ教では、今の体のよみがえりを考えていました。復活を信じないサドカイ派は、今の体のよみがえりがあった場合の問題を指摘したのです。
パウロは、体のよみがえりとは、今の体ではなく【わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。】(15:51)とし、神の神秘の業として、新しいからだのよみがえりを教えます。復活は神様の神秘の御業です。救いは神様の主権によるのです。私たちは、イエス・キリストの復活に与り、新しい命、新しいからだを受け取るのです。これはただ神様の一方的な恵みによるものです。
私たちは、日々神様の愛を受けて、日々新しい命を創造されているのです。しかし、それでもこの世には悪があり、罪がある。救いが起こされながらも罪の中にあることから、人間の体が汚れているものであり、霊のみがすでに救いに与っているという考え方も生まれたのです。
それに対して、パウロは、この世でのうめき、悲しみ、叫び、それらを含めた人間の苦しみを共に担うためのイエス・キリストの十字架を語るのです。そして最終的に、このイエス・キリストが復活されたように、私たちも、完成された神様の恵みに与ることができることを教えるのです。(15:54-57)
4: しっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
今日の箇所は、これまで15章で語ってきた「復活」についてのまとめの部分となります。パウロは最後に【わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。】(15:58)と語ります。
キリストの復活を土台とした希望を持ち「主の業に励みなさい」と教えます。(ヘブライ人への手紙12:1-2)私たちの生きるこの世は、神の国の完成を期待しつつ生きる時です。いずれキリストが来られる時を信じて、様々な苦難に耐え忍び、ただ主に仕え、歩み続けていきたいと思います。(笠井元)