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2022.11.20 「四つの大切な言葉:慈愛・公平・正義・真実」(全文) エレミヤ書9:22-23

今年の子ども祝福礼拝は小学生がいないので、中高生たちに贈る聖書の言葉を考えました。中高生にとって良い言葉は歳をとった人にも重要な言葉でしょう。皆さん一人一人には名前があります。愛のつく名、公平君など「平」につく名、義男さんのように義のつく名、かつて神学生のお連れ合いの名で「真実」と書いて「まみ」さんがおられました。親や祖父母は祈りと期待を込めて生れてきた子に名をつけるのでしょう。今日は、ヘブライ語聖書における四つの大切な言葉;慈愛・公平・正義そして真実について考えてみましょう。人として大切にして欲しい四つの言葉です。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、このことを誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。ここ地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ9:22-22)

 

1.預言者エレミヤ

預言者エレミヤは、紀元前626年当時のヨシヤ王の時代に神からの召しを受けました。まだうら若い年でした。今日は「宗教」むしろ「カルト」の問題が問われていますが、やはり年若いヨシヤ王は宗教改革を志しました。その基礎となる教えが現在では「申命記」というかたちで残されています。しかし、ヨシヤがメギドという場所で戦士すると、イスラエルの政治・社会は混乱して、南西部に位置する超大国エジプトにつくか、東北部に位置するチグリス・ユーフラテス河で力を持つアッシリヤ・バビロニヤにつくかで対立したのです。

預言者エレミヤはイスラエルが戦争に敗けて滅ぼされることを予見し、その冷静な見通しの中で、戦争を避けるためにバビロニアに降伏することを語ったのです。当然、エレミヤは国を売り渡す「売国奴」として非難されたのです。彼は徹底した神の審判を語りましたが、本当に語りたかったのは、悔い改めるなら、つまり、主なる神に立ち帰るなら、神の愛に包まれて生きることが開かれるということでした。預言者エレミヤは神の審判を語る「亡国の預言者」でしたが、実は、「エレミヤ」という名は、「主は建設する」という意味であることは何か大切なことを示しているような気がします。敗けることで、新しく生きる道が開けるのかも知れません。

 また、エレミヤは形式的な宗教よりも、主なる神様との「真実な新しい契約」、個々人の「こころの信仰」と社会的正義・公平の実行を強調したのでした。そのような意味で、預言者アモス、イザヤ、とりわけ、愛の預言者ホセアの影響を受け、この伝統を遙かイエス・キリストに繋いだと言えるでしょう。

 

2.適切な歴史観の中で生きること

ここで、お話を少し広げてみましょう。現代にも十分通じる言葉ですが、「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。」という戒めの背景にある者に注目してみましょう。人は、特に、中高青年の人たちは、適切な、正しい歴史観の中に自分の人生を築くことが重要であると思います。

韓国の元大統領に金大中(キム デジュン)という人がおりました。彼は韓国社会の「民主化」の為に闘っていましたが、1973年東京のホテルから白昼堂々とKCIA(韓国情報局)によって拉致され、足に錘をつけられ日本海に獄で船から投げ落とされる瞬間助けられ、あとからCIA(米国情報局の介入であることが分かったのですが)除名されソウルに軟禁され、処刑されることが予想されていました。そこで金大中さんは妻や子どもたちに手紙を何通か書いており、それが『金大中獄中書簡』(岩波書店)としてまとめられています。その手紙の中に「二十一世紀の生のために」という1981923日付けのものがあります。死を覚悟した彼は妻と子どもたちにどのような想いを伝えたのでしょうか。それは何をするにせよ、正しい歴史観、歴史の枠組みを理解して生きて欲しいということでした。少し引用してみます。「最初の農業はメソポタミア地方(等)に始まり、エジプト・インド・中国・韓国等に展開したと言います。(いわゆる「世界4大文明」ですね)少し省略します。紀元前八―九世紀頃の鉄器文明の出現と前後して、約四-五世紀の間に人間の精神に一大革命が起こりました。:生産力が高くなると貧富の差が拡大し、戦争が絶えなくなり、「空しい」、いったい、人間とは何なのか、どう生きたら良いのかを考えるようになったのでした。この時代に中国では春秋戦国時代に儒教・道教・墨子・法家等いわゆる諸子百家が現れ、・・・インドでは仏陀が生れ、ギリシャでは、ターレス、ソクラテス、プラトンなどの哲学が誕生し、一方、イスラエルでは「万軍の主」という言葉が証明するように、当初イスラエルは神のことを外敵から自分たちを保護する戦争神と考えました。しかし、紀元前八世紀のイスラエル王国滅亡、紀元前六世紀のユダヤ王国の滅亡などで、その信仰に一大危機が訪れました。このとき、アモス、ホセア、ミカ、イザヤ、エレミヤ等の預言者が現れて神はイスラエルとユダだけではなく、全世界の神であり、アッシリヤとバビロニアとペルシャを興したのも神の摂理だという普遍的神の考え、…あらゆる試練にもかかわらず、神の愛はいつも変わることがないという希望などを主張しました。」(6970頁)。カール・ヤスパースは世界史のこの時期を Axial Agesと呼んでいます。聖書の言葉でいえば、「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたし(主なる神)を知ること。「わたしこそ主」であることを知れ」ということになるでしょう。

 

3.主なる神に立ち帰ること

さらに、目を覚まして神を知ることについて考えてみましょう。今日の社会は本当に目を覚まして、素面(しらふ)では生きにくい世の中です。何かゲームとかアイドルとかエンタメに心を傾けないと生きられない。しかし、同時にやはりどこからか「虚しさ」が突き上げてくるのです。あるいは、この「目覚めて」とは原語としては「賢くあって」という意味で、空しい「誇り」に対立する言葉です。「神を知ること」こそ「賢さ」なのです。もう一カ所エレミヤ4:1-2を読んでみましょう。「立ち帰れ、イスラエルよ」と主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」もし、あなたが真実と公平と正義をもって、「主は生きておられる」と誓うなら諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」私たちは、主を知り、主に立ち帰り、生ける神で心を満たすならば、まさに、冷静な目で歴史社会を見、しかし、絶望しないで生きる道があるのです。皆さんは主なる神、愛の神に立ち帰りますか? それとも、自らの知恵と力と富を誇るでしょうか? 神に立ち帰りましょう。

 

4.神を知らされている者の生き方 :この地に慈しみと正義と恵みの業と真実を行うこと

 神を知らされている者のこの世界での生き方は、「慈しみ・愛」(ヘセド)と「正義あるいは公正・公平」な判断(ミシュパート)、ここでは「恵みの業」と翻訳された「義」に生きることです。「慈しみ・愛」を意味する「ヘセド」は時に恵みとも翻訳されます。「正義、公平あるいは公正」は正しく裁くこと(ミシュパート)です。三番目の「義」は正しい裁きの基準で会って、新共同訳では、詩編でも度々ですが「恵みの業」と翻訳されています。以上をもう少し具体的に表現するとエレミヤ6:56のようになるでしょうか。「互いの間に正義(ミシュパート)を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦、つまり、助けてくれる家族がいない、社会的に弱く、貧しくされ、周辺化された人たち」に意地悪しないこと、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムをしないことです。また、無実の人の血を流さないこと、偶像礼拝をしないことです。

 最後に、慈しみ・愛(ヘセド)と公平・公正(ミシュパート)と「義」(ツェデカー)を繋ぐものとして「エメト」を加えたいと思います。先ほど引用したエレミヤ4:1―2に「エメト」という言葉が登場し、「真実」と翻訳されています。神は真実なお方であり、約束に忠実な神に「アーメン」と言って「信頼すること」がエメトです。「真理」(truth)とも翻訳されます。寄留の外国人、孤児、寡婦、つまり、助けてくれる家族がいない、社会的に弱く、貧しくされ、周辺化された人たちに優しい社会はすべての人に住み易い国であるに違いありません。

 今日は「子ども祝福」礼拝ですが、小学生から教会で育った人たちが中学生、高校生になりました。彼ら彼女らがどのような大人になるにせよ、どのような仕事をするにせよ、この4つの言葉:慈愛・公平・正義・真実を大切にして生きて行って欲しいと思います。私たちはその模範となれるように生きたいものです。本来の模範であられるイエス様を指し示しめすものでありたいですね。

 最後にこの説教をひっくり返すようで申し訳ないのですが、慈愛・公平・正義・真実は実は主なる神のことであって、私たちには到底到達できないことなのかも知れません。私が青年時代から読み慣れた口語訳は「誇る者はこれを誇りとせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地にいつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。」多分、そうなのでしょう。神がこの4つのことをなさるのであり、私たちはほんの少しそれらに与らせていただくのでしょう。(松見俊)