1: エルサレムへの募金(献金)
今日の箇所は、募金(献金)についてコリントの教会で何か大きな問題が起こっていたのではなく、パウロの方からの指示として考えられます。
パウロはローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙第二、ガラテヤの信徒への手紙においても、献金について触れています。特に、コリントの信徒への手紙第二では、8章、9章において聖なる者への奉仕として、貧しい者への慈善と奉仕の業を惜しむことなく捧げることを勧めています。【あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。】(Ⅱコリント8:14)
「募金」という言葉は、別の箇所では「贈り物」(Ⅰコリント16:3、Ⅱコリント9:5等)、「援助」(ローマ15:26)、「奉仕」(ローマ15:31、Ⅱコリント8:4、9:1)と言い換えられています。また口語訳聖書、新改訳聖書、岩波訳では「献金」と訳されています。新共同訳で「募金」と訳したのは、「貧しい者への援助」という側面を強調するためとされます。この募金はエルサレム教会の中でも特に貧しい者のためであったのか、エルサレム教会自体が貧しい状態であったのか理解は分かれています。
【わたしがガラテヤの諸教会に指示したように】(16:1)とありますが、ガラテヤの信徒への手紙ではなく、パウロがガラテヤに訪れた時に、ガラテヤの諸教会に募金に関する指示を直接したと考えられています。
ここで、一つ考えたいのは、単に貧しい者を援助するということだけであれば、エルサレム教会だけでなく、もっと近くにも、貧しい教会はあったかもしれません。それでも、パウロはエルサレムへの募金を求めたのです。ローマ15章では【しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。】(ローマ15:25-27)
「霊的なものにあずかったから、肉のもので彼らを助ける義務がある」。これがエルサレム教会を援助する大きな理由だと考えられます。
2: 聖なる者たち
パウロはエルサレムの教会の人々を「聖なる者たち」としました。当時エルサレム教会の人々を「聖なる者たち」と呼んでいたと考えられています。ただ、このコリントの信徒への手紙第一では、コリントの教会の人々のことをも「聖なる者たちとされた人々」と呼ぶことから始まっています。(Ⅰコリント1:2)パウロはコリントの教会の人々、異邦人の人々も神の民の一員とされていると理解していました。
「聖なる者たち」「聖徒」という言葉について、カール・バルトは一人のキリスト者を指すのではなく、交わりの中にいるキリスト者、複数として存在する者たちを「聖徒」だと語っています。「聖なる者たち」。それは、エルサレムの教会であり、それに交わりを持つ、コリントの教会でありました。
3: 献金の考え方
パウロは、2節で、【週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。】(16:2)と言いました。これは、献金に対する考え方としてとても大切な考え方でしょう。私たちは神様によって命を与えられ、養われ、生かされているのです。献金は、この恵みを覚え感謝を表す行為であり、本来どれほど献金しても足りません。神様は、その中で、10分の1という数字を定め、残りの10分の9で、この世で神様に従って生きるようにと教えられています。私たちは、収入を得る中で、自分の好きなように使って、その余りを献金するのではなく、まず神様への感謝を覚え、献金し、その残りで神様に仕えて生活をするのです。
献金の考え方は、生き方すべてにかかってきます。それは、お金の使い方にも関わります。神様から頂いた恵みを、何のために、どのように使うのかを考えていきたいと思うのです。
また、ここでは「週の初めの日」とありますが、イエス・キリストの復活を覚える中での献金をすることを教えてもいるのです。 聖書は、「あなたがたは神様に買い取られた者なのだから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:19-20)と言います。私たちは、「週の初めの日」キリストの復活によって、神様に買い取られた者として感謝をもって生きることを確認しましょう。
4: 主が許してくだされば パウロの計画と神様の計画
パウロは5節からこれからの計画について話します。パウロは「主が許してくだされば」(Ⅰコリント16:7)と言います。使徒言行録でも聖霊に導かれたことを語っています。(使徒言行録16:6-8)「聖霊から禁じられ」「イエスの霊がそれを許さなかった」ともあります。パウロは、自分の計画はあくまでも自分の思いであり、神様に委ねて、神様の御計画、御心、導きを求めて、計画を変更することもあることを語るのです。私たちの計画と神様の計画は違うかもしれませんが、私たちの思いをくみ取った神様の計画が与えられるのです。(笠井元)