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2022.12.4 「沈黙の中で祈り続ける」(全文) ルカによる福音書1:5-20

先週から、イエス・キリストのお誕生の時、クリスマスを待ち望む、アドベントの時となっています。主イエス・キリストは、私たちの救いのために、この世に来てくださいました。今日は、このアドベント第2週として、イエス・キリストのお誕生を待ちつつ、その喜びを、共に受け取っていきたいと思います。

 

1:  神の前での正しい者とされる

 今日の箇所5節において、ザカリアは、アビヤ組の祭司として、エリサベトは祭司の娘と紹介されます。当時のユダヤにおいて、祭司の結婚について、特に、祭司の家の出である者と結婚しなければならないという決まりはありませんでした。ただ、そのような中でも、このザカリアとエリサベトのように、祭司が、同じように祭司の家の者を妻として迎えることは、理想的なものとして考えられていたのです。その上で、6節において、【1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。】(ルカ1:6)とあるように、二人は、その生活、生き方において、神様の前にあって正しい者、非の打ちどころがなかったと、これほどの人はいないというほどの言葉で語られているのです。そのうえで、7節において、この二人には、子どもがいなかったことを語ります。二人は神様の前にあって正しい者、非の打ちどころがない者でありました。この二人の正しさは、子どもがいるかいないか、ということで変わることはないのです。私たちは、まずこのことを覚えておく必要があるでしょう。

神様は、私たちを愛しておられる。この神様の愛は、私たちがどのような状況、どのような状態でも変わることはないのです。様の前にあって、二人は非の打ちどころがないほどに正しかった。それは子どもがどうこうということでは変わることはないのです。しかし、それはあくまでも神様の前にあってです。当時のユダヤの社会では、この「子どもがいない」ということは、正しくない者であると考えられていたのでした。

本来、子どもがいることも、いないことも神様の御心によることです。それこそ、神様の御業による奇跡の出来事として、子どもが与えられるように、同様の神様の御業、御心による奇跡のうちに、子どもがいないということもがあるのです。神様は、その御心をもって、一人一人に必要な道を備え、導いてくださっているのです。それは、子どもがどうのこうのということだけではありません。結婚すること、しないこと、男性であること、女性であること、そのほかにも、国籍や民族の違い、障害を持つことや、生まれた状態、環境の違いがどのようなものであったとしても、そこに、神様の御心があり、そこには神様の御心による祝福があるのです。

私たちは、それぞれ、生まれも育ちも、全く同じという人はいないでしょう。それぞれ生まれた場所も、時代も、環境も、経済状況も違うものです。今では自分を生んでくれた親を否定する言葉として、「毒親」ということもあるようです。私自身も大きな病気を持って生まれました。しかし、そこに神様の愛がなかったのではないのです。神様がどのような者をも愛しているということは変わることはないのです。私たちは、誰もが、神様に愛されているのです。

ここでザカリアとエリサベトは神様の前に正しい人とされます。それは何よりも、この神様の愛を喜んで受け取っていたと言うことができるでしょう。神様の前にあっての「正しい者」、それは、この神様の愛をしっかりと受け取っていることです。私たちは、自分の行いによって正しい者とされることはありません。この自分の弱さを受け入れる時に、私たちは神様の前にあって、正しい者とされるのです。私たちは、すべての者が神様の前にあっては正しい者とされている・・・それはむしろ、すべての者が正しくない者でありながらも、イエス・キリストによって、愛されているということ、その神様の愛を受けることによる正しさを頂いているのです。

 

2:  ザカリアの願いは聞き入れられた

ここでザカリアはくじを引いたところ、「聖所に入って香をたく」という、祭司の仕事を行うこととなりました。このくじに当たり、香をたく仕事をすることは、祭司にとっては、一生で一度とされるほどのことで、ザカリアにとっては、人生の最初で最後の働きとなったでしょう。この時、11節にあるように、天使ガブリエルが現れたのです。そしてガブリエルはザカリアに、【「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。」】(13)と語ります。

この時、ザカリアは何を願っていたのでしょうか。このあと【あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。 1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。】(13-14)とあるので、ザカリアは、確かにエリサベトと自分の間に子どもが与えられることを願っていたと思うのです。ただ、この場面を見て考えるならば、ザカリアは、このとき、祭司としての特別な働きを行っていたはずなのです。また、10節には、ザカリアの働きの外で、大勢の民衆が祈っていたともあります。この時、イスラエルの民が、心を合わせて祈り、神様からの祝福を待ち望んでいたのです。その中で、ザカリアは何を願っていたのか。それは、本来は、このイスラエルの祝福を願うべきであります。それこそ正しい者、非の打ちどころのない者とされるザカリアです。心の奥には、自分のために祈りたいという思いもあったかもしれませんが、この時、祭司として働く中では、イスラエルの祝福、神様の恵みを、祈っていたのではないでしょうか。そのように考えると、この時ガブリエルは、このイスラエルへの祝福という願いを聞き入れられたと伝えたということにもなるのです。

 そのうえで、ガブリエルは、ザカリアに子どもの誕生を伝えました。つまり、このザカリアの子どもの誕生は、ただ、ザカリアとエリサベトを喜ばせるためだけの出来事ではなく、16節に【「イスラエルの多くのこらをその神である主のもとに立ち帰らせる」】とあるように、多くの人がその誕生を喜び、その子ども、バプテスマのヨハネによって、イスラエルの人々が神様のもとに立ち帰ることを教えているのです。神様は、ザカリアの願いを聞き入れられました。それは、バプテスマのヨハネの誕生であり、そこから始まる、イスラエルの人々の悔い改めであり、神様の祝福、救いの御業の始まりのことなのです。

 

 皆さんは、神様に何を求め、何を願っているでしょうか。神様は、その御心をもって、私たちの思いを聞いてくださっています。ここでは、ザカリアの願いとして、バプテスマのヨハネの誕生という願いを聞き入れられたのです。このバプテスマのヨハネは、このあと救い主、イエス・キリストの先駆者として、その道を整える者となります。そのような意味で、まさにイスラエル、そしてすべての人間の救いの出来事のために、この世に神様の愛と希望が広がるために、神様がその道を整えられた。そのためのバプテスマのヨハネの誕生なのです。

私たちは何を願うことも許されています。そのうえで、神様は、そのような私たちの思いを超えて働いてくださるということを覚えたいと思います。神様は、私たちの願いを聞き、様々な形をもって、御業を起こしてくださいます。そして神様は、その業を通して、私たちが、神様の愛に触れるための道を整えてくださるのです。

 

3:  しるしとして与えられた沈黙

 ザカリアはガブリエルの言葉に対して【「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。」】(1:18)と尋ねます。ザカリアはこのガブリエルの言葉を、そのままで信じることが出来ませんでした。そしてその「しるし」を求めたのです。これは特にザカリアが信仰がない者であるということではないでしょう。それこそ、信仰によって義とされた、イスラエルの信仰の父とも言われるアブラハムも同じように【「わが神、主よ。この土地を私が継ぐことを、何によって知ることができましょうか」】(創世記15:8)と神様に尋ねているのです。アブラハムもザカリアと同じように、子どもがおらず、老年になっていたため、自分の家を継ぐのは、親戚のエリエゼルだと神様に言ったのです。ザカリアが「何によって・・・」と「しるし」を求めることに対して、ガブリエルは、「あなたは口が利けなくなる」と言い、これが「しるし」とされることになっていくのです。ザカリアは、子どもが与えられ、イスラエルが神様に立ち帰ることになることを知るための「しるし」として、口を利くことができないという「しるし」を与えられたのです。

神様のしるしとして「口が利けなくなる」ということを見ることから、神様からのしるしとは、私たち人間にとって、良いことばかりではないということを知るのです。神様は、様々な出来事を通して、私たちにその御心を示されます。私たちの人生には、自分にとっては良いこともあれば、こんなことなければよいのに、と思うようなことも起こります。私たちは、そのような中で、その一つ一つを通して、神様がその御心を示してくださっていることを覚えたいと思うのです。泣きたくなるような苦しみ、痛み、悩みの中で、神様が、私たちの生きる道を示し、整えてくださることもあるのです。そしてまた、そのような時、私たちは一人ではない。そこに必ずイエス・キリストが共にいて、そのうえで、私たちを導いてくださっているのです。

今日の箇所で、ザカリアは、口が利けなくなりました。この「口が利けなくなる」ということは、「沈黙」を与えられたとも読むことができるでしょう。「沈黙」には、様々な意味を読み取ることができます。一つには、他の誰でもなく、ただ神様とのかかわりに目を向け続ける者とされたと読むことができます。ほかの誰とも語り合うことはできなくなった。そのような意味で、口が利けなくなるということで、人間の誰かではなく、神様と向き合う者とされたのです。そのような意味で「沈黙」は、人間的には良いことではないかもしれませんが、神様との関係においては、とても意味のある、大切なこととして受け止められるのです。

 

 

4:  祈り、キリストの誕生を待つ

 ザカリアは、子ども、バプテスマのヨハネが与えられること、そしてイスラエルが祝福され、立ち帰ることを教えられ、そのことを知るために、沈黙を与えられました。ザカリアは、沈黙の中、神様と向き合う時間を頂いたのです。これは祈りの時とも言うことができるでしょう。ザカリアは「沈黙」という、神様の恵みの中で、祈りの時を頂いたのです。ザカリアの沈黙は、その子、バプテスマのヨハネの誕生まで続きました。そのような「沈黙」「口が利けなくなる」ということから解放されたとき、ザカリアは、神様を賛美したのです。ここに、ザカリアが「沈黙」によって頂いた、神様の恵みを見ることができるのです。

 【1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、1:77 主の民に罪の赦しによる救いを、知らせるからである。1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」】(ルカ1:76-79

 今、私たちはアドベントとして、イエス・キリストの誕生を待ち望む時を迎えています。私たちは、このアドベントの期間を、心を落ち着かせ、祈りつつ過ごしていきたいと思うのです。そして、主イエス・キリストの誕生を求めていきたいと思います。神様は、この世に、イエス・キリストを送ってくださいました。それは、この世界に、神様の愛が注がれるため、そしてそれは、神様と私たちを繋ぐため、私たちが、神様に向き合うことができるようになるために、きてくださったのです。

 この世は、ザカリアとエリサベトがされたように、その人間の一部分を見て、差別をし、生きることを馬鹿にし、命を大切にすることを「無駄」だとする。差別の世界、暗闇に覆われた世界です。 そのような、この世界に神様は、御子イエス・キリストを送ってくださった。この出来事は、それこそ、神様にとっては、良いことというよりは、自らの子どもを、暗闇の世界に送るのですから、苦しい出来事であったでしょう。それでもなお、神様は、私たちを愛し、私たちに目を向け、私たちに希望を与えるために、私たちが喜んで生きるために、イエス・キリストを送ってくださったのです。

 このアドベントの時、私たちは、まず、心を落ち着かせ、祈り続けましょう。それこそ、ザカリアには、神様の祝福のしるしとして、沈黙があたえられました。そしてその沈黙から、ザカリアは神様と向き合い続けたのです。私たちも今、まず神様に目を向け、神様の思い、御心を聞いていきたいと思います。そして、そのために、祈り続けたいと思うのです。祈りは力、祈りは喜び、祈りは平安を与えます。祈りは、神様と生きる、その関係を繋ぐのです。私たちは今、イエス・キリストがこの世界に来て下さることを願いましょう。そして心を落ち着かせ、祈り続けていきたいと思います。(笠井元)