1: コリントの信徒への手紙第二
今日からコリントの信徒への手紙第二を読んでいきたいと思います。第二コリントは、パウロが自分自身の使徒職を説明、擁護、弁明する内容が多くなっており、パウロの生の姿、個性が、生き生きとした形で描き出されている書簡ともされます。
パウロはコリントにいくつかの手紙を送りました。その数は5通から7通ほどとされています。一つ目は、Ⅰコリント5:9に【5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、】とあるように、第一コリントの前に記された手紙であり、この手紙は失われたものとされています。二つ目はⅠコリントの信徒への手紙です。三つ目はⅡコリント2:14—7:4。四つ目はⅡ2:4に【わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。】(2:4)とあるように「涙の手紙」というものがあったと考えられます。また、その一部として、第二コリントの10章~13章が含まれていたとも考えられます。五つ目はⅡコリント1:1-2:13、7:5-16とされます。
第二コリントの8章と9章はどちらも、エルサレム教会への献金の勧めの内容ですが、それぞれ違う手紙の一部、断片だったとも考えられ、こちらを含めて5~7通となります。第二コリントは書かれた順番、内容が入り組んだ書簡となっています。
この時のコリントの教会ではパウロの評価に誤解が生じていました。そのためパウロは、自分は弱い、しかしそこに神様が働いてくださることに信頼していること、あらゆる苦難の中にあっても、神様が慰めてくださる、自分は神様から選ばれた使徒であることを語ったのです。
2: 神の御心によって使徒とされた
パウロは【神の御心によって、キリスト・イエスの使徒とされた】(1:1)と書き出します。この書き出しは第一コリントとほとんど変わらない書き出しとなっています。パウロは、まず「自分は神様の意志によって使徒として選び出された」と宣言しているのです。
使徒言行録9章にあるように、パウロはもともとキリスト者を迫害者する者でありながらも、ダマスコの途上にあってイエス様に出会い、回心させられたのです。このような劇的なイエス様との出会いからも、パウロは、「自分は、自分から願い求めてキリスト者となったのではなく、神様の御心によって、キリストの使徒として選び出された」と告白しているのでしょう。ただキリストを主とする。これがパウロのアイデンティティでした。また、この「キリストを主とする」という生き方は、すべてのキリスト者のアイデンティティとも言うことができるでしょう。
私たちは心の中心に何が置かれているでしょうか。イエス様が心の中心に来てくださっているということを何度も思い起こしていきたいと思います。
3: 苦難の中での神の慰め 慰めをも共にする
パウロは3節から苦難に対する神様の慰めについて語ります。(1:3-7)8節からは、アジア州で、生きる望みを失うほどの苦しみに出会ったことを語ります。しかし、あらゆる苦難に際して、神様は慰めて下さったと語るのです。
神様に従ったパウロの道に苦難がなくなったりはしませんでした。むしろパウロはイエス・キリストを伝える者として、命が危険にさらされることが何度もあったのです。その苦しみを神様は慰めてくださる。慈愛に満ちた神様が私たちを豊かに慰めてくださるのです。
そしてまた、パウロは、この苦しみはキリストの苦しみ、この慰めはキリストの慰めに繋がることであり、コリントの教会の人々に【あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。】(1:7)と語ります。
イエス・キリストは十字架の上で、私たちの苦しみをすべて受けて下さったのです。だからこそ、この十字架を見る時に、私たちは、共に苦しみ、そして同時に、共に慰めてくださるキリストを見るのです。私たちはこの慰めを共に分け合いたいと思います。
4: 祈りで援助していただく
パウロは何度も命の危険にさらされていました。そのような自分のために「祈りで援助してください」と、祈りを求めるのです。パウロは、自分が祈ることと同時に祈りを求めたのです。私たちは祈り合うのです。それは、自分が祈るだけではなく、祈ってもらうということでもあります。祈ってもらうためには、自分の苦しみ、自分の弱さ、自分の間違いや失敗を知られることにもなるときがあります。「祈って下さい」と言うことが難しいときもあります。【12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。】(Ⅱコリント12:9-10)
弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの時、弱い時、そのときに神様の力が十分に発揮されます。そのためには、キリストの祈り、兄弟姉妹の祈りの援助が必要なのです。そして、この祈りの援助こそ、何よりも大切な援助となります。(笠井元)