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2022.12.18 「苦しみが恵みに変わる時」(全文) ルカによる福音書1:26-38

1:  恵まれた方 マリア

 今日はアドベント、待降節、イエス様の誕生を待ち望む時の第三週の礼拝となります。今日の箇所は、天使ガブリエルがマリアのところに遣わされ、イエス様の誕生を知らせる場面となります。ガブリエルはマリアに【「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」】(ルカ1:28)と告げ、続けて【「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」】(ルカ1:29)と告げます。ここでガブリエルは、マリアに「恵まれた方」「あなたは神から恵みをいただいた」と、「恵み」を与えられたことを告げるのです。マリアには「恵み」が与えられるのです。 

現在、アドベントとなりますが、アドベントには「待つ」という意味と同時に、「到来」という意味もあります。今日のこのガブリエルの言葉から読み取るならば、恵みの到来、恵みがやってくるということになるでしょう。このアドベントのとき、私たちは神様からの恵みの到来を待ち望みたいと思うのです。皆さんにとって、「恵み」とは何でしょうか。「恵み」の到来という場合、皆さんは、どのようなものを待つのでしょうか。

 ガブリエルは続けて、マリアに【あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。】(ルカ1:31)と告げます。これが、マリアに与えられた「恵み」となります。ただ、このマリアがイエス様を宿すこと。それはすべてが喜びで受け入れられる出来事ではなかったのではないでしょうか。マタイによる福音書では、この出来事から、ヨセフはマリアを離縁しようとしたと記されているのです。つまり、この出来事、イエス様を身ごもったということは、両手を挙げて「万歳」と言えるほど、喜びのことではなかった。むしろ、「男の人を知らない」とするマリアからすれば、戸惑いの出来事であり、大きな試練の出来事となるのです。

 

私たちの人生には、良いことばかりが続くわけではないでしょう。毎年、今年の漢字というものが発表されますが、今年は「戦」(たたかう)という字が選ばれました。今年の2月にロシアがウクライナに侵攻し、それから10ヶ月が過ぎます。しかし、未だ解決の糸口も見えない状態となっています。それだけではありません。世界を見渡せば、その他にも多くの場所で紛争が起こっているのです。また、今年を振り返るならば、3年目となった新型コロナウイルスの感染拡大も、未だ収まることもありません。また、日本では円高が進み、物価は上昇するばかり、生活必需品を手に入れることも苦しい生活となっているのです。また、環境破壊による自然災害の発生が多くの場所で起きている。それは、人間がこれまで目先の利益ばかり考えた結果であり、この人間の欲望が、多数の悲惨な災害を起こしているのです。しかもそれは、先進国といわれる国の利益のために、発展途上国が多くの被害を受けているといった構造にもなっているのです。今年も12月を迎えていますが、この1年に起こった悲しい出来事を挙げれば、本当にきりがないのです。

そのような現実に置かれている私たちですが、それでも、神様は、そのような私たちの人生に、恵みを送って下さっている。神様は、そのような、暗闇の出来事の中にも、私たちに恵みを送ってくださっているのです。

 

このあとのマリアの人生を見ても、マリアの苦しみは、この時だけではなかったでしょう。このあと聖書にはヨセフはまったく出てこなくなりますが・・・これは、特に証拠のないことですが、一つの考えとして、ヨセフはイエス様の小さい頃に召されたとも考えられています。そうであれば、マリアは一人で子どもを育てたことになります。しかも、その長男イエス様は、自分から離れていき、最終的に、この世において一番むごい姿、十字架刑とされて殺されていく。そのような姿で自らの子どもの死を見ることになっていくのです。このような自らの子、イエスの死を、マリアはどれほどの苦しみで受け留めていったのでしょうか。想像を絶する思いなのです。それでも今日の箇所で天使ガブリエルはマリアに「恵まれた方」と告げ、確かにこの多くの試練を生きたマリアが、神様の恵みのもとに生きていく、神様の恵みに満たされ人生となると告げたのです。

 

2:  試練の中に見る恵み

 フィリピの信徒への手紙には、このような言葉があります。【つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。】(フィリピ1:29)【キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられる】。これが聖書が教える恵みです。つまり、苦しむことが、そのまま、すべてが苦しみではなく、苦しむことからも「恵み」を得ることがあるということです。ガブリエルは言いました。【「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」】(1:28)。つまり、「神様が共にいてくださる」ということです。マリアは、今日のガブリエルからの言葉に、【「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」】(ルカ1:38)と応えました。イエス様を身ごもるということは、大きな試練となるかもしれませんが、そこには神様が共にいてくださる。この出来事によって、あなたは「神様が隣にいてくださる」という恵を受けるだろうと伝えているのです。マリアは、この言葉を受け取る時に、どれほどの試練も、恵みとされる。どれほどの苦しみも、主が共にいてくださることを信じ、受け入れたのでした。マリアはこの「主が共にいてくださる」ということを信じた。だからこそ、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と、神様に感謝して受け入れていったのではないでしょうか。

苦しむこと。それがそのままで喜びとはならないと思います。誰でも、できるならば苦しみは避けて通りたい、苦しまなくてすむなら、わざわざ苦しみに向かっていきたくはないと思うのではないでしょうか。しかし、人生において全く苦しむことがないということはないのです。

 だいぶ昔の話ですが、私が高校生の頃、教会でお世話になっていた方がいました。たぶん今の私くらいの年齢の方だったと思うのですが・・・気さくな方で、高校生の私にもよく声をかけてくださり、一緒にご飯を食べに誘ってくれたこともありました。しかし、そんなある時に、突然その方が癌であるということが分かったのです。しかも、その癌の進行はとても早く、その後、すぐにその方は神様の御許へと召されていきました。これは、私にとって、親しかった方の「死」に直面した一番最初の出来事でした。この出来事は、あまりにも早すぎて、受け入れることができないという前に、まったく理解することが出来ず、私はただ呆然として立ち尽くしていました。このことに、当たり前ですが、私よりも、お連れ合いの方が大きなショックを受けられ、まったく受け入れられないといった状況でした。私が高校を卒業して、神学校に行ってからも、何度も、そのお連れ合いの方と手紙でやりとりをしました。その中で、後から知ったのですが、亡くなられる前に、その方は、「この出来事は悪いことばかりではない」「このことを神様に感謝したい」と言われて召されていったと聞きました。確かに、そのような言葉を言われるだろうと思われるような方でしたし、その言葉を聞いて、あの方らしいなと思いました。ただ、最初の頃、お連れ合いの方は、残された者としては、そのような言葉を聞いても、その死を簡単に受け入れられるものではない、と言われていました。それでも、それから何年も経つなかで、少しずつ、この苦しみの出来事の中に、もちろん「苦しい」という思いを持ちながらも、そこに「神様が共にいてくださる」という恵みをみて、そのことを感謝する。感謝したいと思わされるようになってきたと、言われるようになったのです。

 

3:  苦しみが恵みに変わる時 

 私たちは試練や苦しみを受けたいとは思わないでしょう。それでも、確かに、苦しみが恵みと変わる時がある。人生の危機、家族の危機の中、それでも、その出来事を通して恵みを頂くことが、確かにあるのです。そしてそれは、先ほど読みました、フィリピの言葉【つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。】(フィリピ1:29)という言葉にあるように、「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という言葉にあると思うのです。つまり、私たちが生きる時、それが何のために生きているかということです。皆さんは今、何のために生きているでしょうか。この生き方が「キリストのため」となるとき、私たちの受け取るすべての出来事は、恵みとなります。そしてすべての出来事が感謝する出来事となるのです。

ただ、そうは言っても・・・と思われるのではないでしょうか。それこそ、先ほどの召された方のお連れ合いの方は、その、「この出来事は悪いことばかりではない」「このことを感謝したい」と言われた言葉を聞きながらも、それでも何年も、苦しみ、何度も私に「どうしてこんなことになったのでしょうか」と尋ねられてきました。何度も、何度も神様に問い、苦しみ、歩まれたのです。これが人間の本音でしょう。私たちは、それほど強い者ではないのです。

して、だからこそ、このような私たちのために、イエス様はこの世に来られたのです。私たちからは、いつも、何があっても、心を開いて、神様を賛美するということはなかなかできない。だからこそ、神様から私たちのほうに来てくださった。イエス・キリストがこの苦しい私たちの人生に生まれて来てくださったのです。そして、イエス・キリストは、私たちの苦しみを共に担い、私たちの痛みを共に痛み、受け取ってくださったのです。私たちは、自分が苦しい時、このことを思い起こしたい。イエス・キリストの十字架は、今、この時、苦しむ、私たちのためにあったのだと。キリストは、十字架で死に、今、苦しむ私たちの痛みを共に痛むために、そのためにこの世に生まれてくださったということを覚えたいのです。これが神様の私たちに向けられた愛の業です。

 

私たちがキリストのために生きるということ。その主語は「私」となっていますが、本来の主語は「私」ではなく、その主語は「キリスト」なのです。私たちの生きる道。それは、キリストが、キリストこそが、私たちのために生きてくださっていることを受け取ることです。私たちが・・・ではなく、キリストが、私たちのために生まれ、生きて、死んでくださったのです。このことを受け取る時、私たちの苦しみは、ただの苦しみではなくなるでしょう。そこにキリストがおられる。キリストが、私たちの傍らにいてくださる。私たちを慰め、癒し、助けてくださるのです。このことを受け入れる時、苦しみはこの神様の愛を知る出来事と変えられていくのです。その苦しみは、苦しみでは終わらない。私たちは、そこから神様の愛を知り、感謝する者と変えられるのです。

 

4:  神様の御言葉を受けて

 マリアは【「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」】(1:37)とし、その言葉を受け入れていきました。この、マリアの心を動かすために、神様はガブリエルを送り、神様の御言葉を告げたのです。私たちが苦しみを恵みとして受け取るために、神様の御言葉があります。そして私たちは、神様の御言葉を受けるために、この教会に集まり、礼拝をしているのでもあります。耐えきれない苦しみ、抱えきれない悲しみを、今、神様に差し出しましょう。神様は、この苦しみを受けとめてくださいます。そして、神様の言葉に耳を傾けましょう。神様は、私たちが生きるための御言葉を注いでくださいます。苦しみに絶望する私たちを、神様は受け留め、そして私たちに生きる希望としての御言葉を与えてくださるのです。それが、私たちの行う礼拝です。苦しむことから不平、不満、恨みや絶望を持つ者から、この礼拝を通して、私たちは、そのすべてを恵みとして感謝して頂く者と変えられていくのです。つまり、神様の御言葉によって、すべては「キリストのために」という生きる意味を頂くのです。今、この礼拝をもって、神様の御言葉を頂き、私たちは変えられていきましょう。神様の御言葉を心に受け入れていきましょう。

 

 最後に聖書を一か所読みたいと思います。今日の招詞の箇所となります。【わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。】(ローマ14:7-9)(笠井元)