皆さん、クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、神様から大切なイエス様をプレゼントされたことを喜ぶ日です。誰かに「贈り物」をすることによって心が少し豊かなものになりますね。選んだ聖書箇所はパウロがエルサレム教会のために「贈り物」をしようと教会に呼び掛けた箇所です。
1.信仰の出発点であり、募金の大前提:主イエスの恵みを「すでに」知っていること
エルサレム教会のための募金活動の出発点は、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。」と言うことです。募金活動はあくまで神の先立つ恵みへの喜びの応答なのです。この事実を外してはなりません。
2.主イエスの恵みの内容
その恵みの内容は、「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」
ということであると言います。さらに、具体的には、神のみ子がイエスという名で、貧しい大工というか石工のヨセフとマリアの子としてこの世に生れ、この世にきちんと触れて下さり、30歳過ぎに、巡回伝道者として神の国の到来の間近さを宣教された。そして、社会的に虐げられていた弱者や病気の者たちを癒された。しかし、イエス様の余りの自由と平等の教えによってユダヤ人の指導層から恨まれ、非暴力の道を歩まれたゆえに男の弟子たちに裏切られ、棄てられ、十字架で殺されたということ、そのすべての歩みを纏めて、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」と言っているのであると思います。「貧しさ」とは、お金がない経済的なことでしょうか?「豊かさ」とはお金があることでしょうか?貧しさとは自分のものは自分のもの、他人のものも自分のものと考える「さもしさ」のことではないでしょうか。また、豊かさとは誰かと喜びと悲しみを分かち合うことではないでしょうか?
3.神からの贈り物
父なる神はみ子を遣わし、私たちに愛といのちを分かち合ってくださりました。み子はこの世に来られてそのいのちと愛を分かち合って下さったのです。この父なる神と子なるキリストの両者を聖霊が繋いで「喜び」の「いのち」の「愛」の出来事にして下さっているのです。オー・ヘンリーの短編「賢者の贈物」に耳を傾けてみましょう。自己犠牲から自己投与、自己奉献へ。
4.富めるものとなっているかどうか?
テキストの9節後半は、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」ということの目的が記されています。それは、「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。とあります。これも過去形で既存の事実を表現しています。皆さんは、主イエス様の貧しさによって豊かになっていますか? 日本社会の雰囲気はどうであれ、私たち教会は、「豊かに」されているでしょうか?異質な他者を受け入れ、喜びと悲しみを分かち合うことができているでしょうか。新しい年も、失った大切なものを共に悲しみつつ、「豊かにされた者」として生きましょう。(松見俊)