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2023.1.1 「命の息を吹き入れられた者」(全文) 創世記2:4b-7

皆さん、明けましておめでとうございます。今日から新しい一年が始まります。今年は珍しく、1月1日が日曜日となりました。新しい年を主の日として、共に集まり、共に礼拝する中で迎えることができたことを嬉しく思います。私はこの教会に来て、現在10年目となりますが、以前にも、このように、1月1日が日曜日だった日がありました。何年前だったか、皆さんは覚えているでしょうか。6年前の2017年の1月1日が日曜日でした。 

 

1:  喜んで生き、喜んで死を迎える

 今日から新しい一年が始まりますが、皆さんは、一年の目標などは何か考えたでしょうか。教会附属の東福岡幼稚園では、毎年、一年間の目標を一月に考えるようになっています。私は、今年の目標の一つとして「新しく趣味を作る」としました。昨年、体力の状況から、フットサルを引退しましたので、何か新しいことを始めてみたいと思っています。私は以前、一年間の目標で「健康維持」を目標としたことがありました。インターネットでみてみますと、一年の目標では、「健康」に関する目標が一番多いそうです。インターネットでは、もう少し、「一日3食食事を摂るとか、暴飲暴食をしない、運動をするなど具体的に考えましょうと」ありました。ただ、もちろん、健康を保ち、元気に生きることは大切なことなのですが・・・この目標は、人生の目標の土台となるのではないかとも考えるのです。それこそ、本当のところは、できれば、健康を保ち、その体を土台として、そこから何か目標を考えていきたいとも思ったのです。そのようなため、多くの人が、きちんと自分にとっての土台が何かということを理解しているとも言うこともできますし、その土台がなかなかしっかりできていないということもあり、そのため他に目を向けることができない、ということでもあるかもしれません。

 そのように、あれこれと考える中で、私たちの人生の目標、それこそ一生の目標とはいったい何なのだろうか・・・とも思ったのでした。以前、神学生のときにいた教会では、一年のこの始まり、1月1日の元旦礼拝の後、みんなで、自分の死をどのように迎えるかを考える時をもっていました。 一年の最初から、自分の死について考えるのは、なんとなく縁起的にはよくないと思いますし、そのようなことはしたくないという意見もありました。ただ、その時の先生は、キリスト教にとっての死は、悲しいことかもしれませんが、悪いことではなく、むしろ神様の御許に迎えられることであり、わたしたちは、そこに向かって生きているとし・・・自分の死、自分がどのように神様に迎えられることを考えることから、その中でのこの一年の自分の生き方を考えていきたいということから、このように始められたと言われていました。それこそ、それは、死についての考え方として、死はすべての終わりではなく、死は神様の御許に召されることである。神様がその意志をもって、私たちを迎えてくださるという思いに基づいてこそできることだと思うのです。

 死は絶望ではありません。むしろ死は希望です。死は。この世においての関係を一時的に断絶します。そのため、家族の死、友人の死などを迎える時、私たちは絶望感を持ちます。「もうあの人に会うことができない」と。この感情は、人間であれば当然の思いだと思うのです。しかし、感情ではなく、頭の理解としては、「死」は絶望ではなく、希望なのです。この世での人生を、喜びと悲しみの中で、色々なことを感じて生きていく。その中にあって、人間は沢山の良いこともすると同時に、間違いや、振り返りたくないようなミスも起こしてきているでしょう。それこそ、それは生きれば生きるほど、良いことも、悪いことも積み重なっていくのです。そして、私自身感じることですが、どれほどたくさんの良いことをしても、悪いことをしてしまったという事実を消すことはできず、その苦しさは消えないのです。死とは、そのような人間を神様が受け留めて迎え入れてくださる出来事です。それこそ、神様の愛によって包み込まれる出来事。罪の思い、悲しみや絶望からの解放。まさに希望の出来事。それが、死なのです。どれほど苦しくても、辛くても、神様がその意志をもって、私たちを愛の御許へ迎え入れてくださる出来事、それが死です。 

 私たちはどのように生きて、そしてどのように死を迎えようとしているでしょうか。生きる目標が「喜んで生きる」であれば、死の目標は「喜んで死を迎える」と続くでしょう。喜んで、神様の御許に召される。そのために、どのように生きるか、そしてこの一年をどのように生きていくのかを考えていきたいと思うのです。

 

2:  生きる者とされた

 今日の聖書箇所では、【主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。】(創世記2:7)とあります。 私たち人間は、土の塵で形作られたのです。このことを創世記3章では、神様がアダムに【「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」】(創世記3:9)とも言われるのです。人間は塵から造られ、いずれ塵に返るのです。このことを聞くときに、ある人からは、「聖書は人間が塵だというのですが、人間には塵ほどの価値しかないというのですか」と聞かれことがありました。たしかに「塵から造られた」と聞くと、なんとなく、自分は価値のない者と言われているように感じるかもしれません。ただ、この神様の人間の創造の出来事は、私たちには価値のないというよりも、むしろ価値があることを語っているのです。

 その価値の一つとして、まず、塵にすぎない者が、神様によって造られたということにあります。 本来、ただの土の塵でしかなかった。しかし、そこに神様が、手を差し伸べ、その塵を形づくり、人間を造ってくださったのです。しかも、そこにあって神様は「命の息を吹き入れられた」のです。この出来事によって、人間は「ただの価値のない土の塵」から、「価値ある者、神様に形作られ、命をいただいた者」とされたのです。私たちは、神様によって、その存在価値を認められ、大切な存在として造られたのです。

7年前のことですが、相模原にある障がい者施設において、19人の人が殺害され、26人の人が重軽傷を負った事件が起こりました。この事件を起こした人は、このことを、「障がい者は生きている価値がない」「社会のためにした」というようなことを言っており、そしてその意見は変わらないとされています。そしてまた、昨年2022年には、静岡の保育所においては子どもを宙づりにするなどと、そのほかにも多くの場所で、保育者による子どもへの虐待のニュースがありました。この出来事は、幼稚園を運営する者としては、とても大きな衝撃の出来事でした。

このような社会の中で、皆さんは、何をもって、自分に価値を見出しているでしょうか。どうしても、人間は、「あれができる」「これができる」といったところに価値を見出し、「あれができない」「これができない」というところに自分の存在を否定する思いを持ってしまうのではないでしょうか。その相模原の7年前の事件の後、「障がい者には価値がない」といった言葉には、それを肯定する意見も多くあったと聞いています。つまり、そのように、自分にも、他者にも、「何かができる」というところに価値観を見出している、別の言い方だと生産性があるかということです。ここから、「人に頼ることはいけないことだ」という思いに陥ることもあります。つまり、自分でできる。自分でできなければならない。人に迷惑をかけることで、人の生産性を下げてはいけない。そのような価値観に陥っているということではないでしょうか。

 確かに、私自身も、自分の弱さや欠点をみて、「なんで自分はこんななんだろう」と思うことがあります。そしてだからこそ、そのような人間に神様は、「私が、あなたを形作り、あなたに命の息を吹き入れた。神であるわたしがあなたを生きる者とした。神であるわたしがあなたを必要としている。何かができるからではない。ただ、わたしがあなたを造り、あなたを価値ある者とした。あなたを愛している」と語って下さっているのです。「あなたは土の塵にすぎない者であった。しかし、わたしがあなたを形作り、あなたに生きる価値を与えた。」この神様の御業こそが、私たちの生きる意味です。そのほかには何もないのです。「勉強ができる」とか「運動ができる」とか、「あれができる、これができる」「あれができない、これができない」ということは、それぞれ、神様が形作ってくださった、その形によることであり、それはそれぞれの「個性」となるのです。ある神学者は、「すべての人間は障がい者である」と言いました。そのように人間は誰でも欠点を持っているのです。それは誰でもです。あとは、そこに違いがあるだけなのです。

 

3:  神様の恵みに応えて生きる

 今日の5節では、【地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。】(創世記2:5)とあります。そして、先ほども言いましたが、3章19節では【「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」】(創世記3:19)ともあるのです。ここでは、人間はパンを得るため、「顔に汗を流さなければならない」と教えているのです。人間は生きるため「何かをしなければならない」ということです。

 先ほどもお話しましたが、私たちの教会には、附属の幼稚園があります。私は、園長として就任してから10年目となりますが、幼稚園の存在の意味、教育機関としての幼稚園の意味を何度も考えました。それまで、牧師になることを考え、牧師になり、教会のある意味は何度も考えてきましたが、この教会に来て、幼稚園の園長となることで、始めて、教育の意味を考えるようになりました。幼稚園では、様々なことを学びます。まず、ご飯を食べたり、お茶を飲んだり、お茶をこぼしたら、拭いたり、服を脱ぎ、服を着て、トイレに行くと、生活習慣を基礎から学びます。また、絵を描いたり、工作をしたりと本当にたくさんのことを学びます。そして、友だちと遊ぶことから、みんなで何かをするといった、集団生活をも学ぶのです。このようなことから、知恵をつけ、力をつけ、人間関係を作ることを覚えていくのです。なぜこのようなことをするのでしょうか。一つの大きな目的は、社会で生きていくためだと言うことができるでしょう。それこそ顔に汗を流して、パンを得るためなのです。ただ、そこで終わりではないでしょう。もしこれだけが答えとなる時には、結果、「あれができる」「これができる」ということだけを求める者となってしまうのです。私たちは生きるために、パンを得るために、顔に汗を流して働くことが必要とされるのです。しかし、その必要を満たすことだけを求めていくとき、それはいつの間にか、「自分のために働く」「自分がよりよいパンを得るために」となってしまうのです。

神様が教える生き方、それは、「自分のため」に生きることが中心ではないのです。それは、わたしたちを塵から形作り、命の息を吹き入れてくださり、私たちに生きる意味を与えてくださった「神様のため」なのです。そしてだからこそ、神様に造られた自分を大切にし、そして神様の造られた隣人を大切にして、私たちは生きるのです。このために、幼稚園では神様から頂いた体を大切にし、様々な能力を伸ばしてほしいと思います。 

 幼稚園では、2019年に、その設立の趣意を新たにし、そのための聖句も新しく決めました。 設立の趣意はこのようになりました。

「キリストを基とする、愛する心の形成」(建学の精神)

【東福岡幼稚園は、子どもたち一人ひとりを尊重し、子どもたちの心と体とが健やかに成長するための環境を整え、キリスト教の信仰に基づき、福音の喜びを伝達し、保育することを通して、神に愛されている自分を受けとめ、隣人を愛する人になれるよう、支援することを目的として設立する。】

聖句 「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」

(コロサイの信徒への手紙3章14節)

 幼稚園では、心と体とが健やかに成長することを願い、その成長をもって、神様に愛されている者、隣人を愛する者となることを願っているのです。子どもたちには色々なことを覚えて欲しいと思います。そして、何よりも愛を身に着けて欲しい。その愛によって、隣人を愛し、隣人のために生きるだけの力をもってほしい。神様の愛を現す者として生きて欲しいと願っています。私たちがまず覚えておかなければならないことは・・・私たちは、自分の力で命を造り出すことはできないということです。あくまでも、神様によって、形作られ、命の息を吹き入れられた者なのです。そしてパンを頂き、養われて、生かされているということです。この神様の恵みを土台として、神様の恵みに応える者として生きていきたいと思います。神様の愛を現すために、汗を流してパンを得て、生きていくのです。確かに、人間には、個性として、それぞれに違いがあります。そこには様々な能力の違いがあります。この個性を持つ者として、わたしたちがしなければならないことは、自分のためだけに「顔に汗を流してパンを得る」ではなく、そのことを通して、神様から命をいただき、愛を受け、そして神様の愛によって生かされている者として、隣人のために生きていくことなのです。そして、そのパンを分け合い、頂いていくことです。分かち合い、生きていくとき、そこに神様の愛を現す者とされるでしょう。

 最後に聖書を一か所読み、終わりたいと思います。【あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。】(コロサイ3:12-14

 

私たちは、この生き方を覚えて、この新しい一年も歩んでいきたいと思うのです。(笠井元)