1: 孤独なレビ
今日の箇所では、レビという徴税人が登場します。徴税人として、有名な人では徴税人の頭として、ルカによる福音書19章に登場するザアカイという人がいます。ザアカイについては、19:2において、「徴税人の頭で、金持ちであった。」とありますが、同じように、徴税人レビもお金持ちだったと思われます。このことは今日の29節において、イエス様のために盛大な宴会を催したということからもわかるのです。徴税人というのは、基本、お金持ちだったと考えられます。しかし、だからといって、この仕事がとても喜ばしい仕事で、みんなが目指している素晴らしい仕事ということではなく、むしろユダヤの社会においては、嫌われ者、はみだし者でした。
当時、ユダヤの人々は、ローマ帝国に支配されていました。そして、ローマ帝国には、人頭税、商品税、資産税などといったものがあり、多くの税金を取り立てられていたのです。そして、その税金を取り立てていた者、ユダヤの人々にとってみれば、自分たちを苦しめるローマ帝国に仕える裏切り者として、税金の徴収を行っていた者。それが徴税人でした。徴税人は、そのほとんどが、その土地に土着した裕福な人々であり、まずそこにザアカイのような徴税人の頭がおかれ、その徴税人の頭が、実際に徴税を行う者として、徴税人を選んでいたとされます。そして、この徴税人のほとんどは、ローマ帝国から言われた金額よりも、多く取り立て、私腹を肥やしていたとされるのです。そのようなことからも、人々は、この徴税人を、ユダヤの裏切り者として、また、自分たちからお金を取り立て、私腹を肥やすものとして、軽蔑していたのです。
30節では「徴税人や罪人」と言われるように、徴税人は罪人と同等の立場、つまり律法を守らず、神様から離れた者とされていた。そのため徴税人は、ユダヤ社会の裏切り者、罪人として締め出され、追放された存在でもあったとのです。しかしまた、だからといって、徴税人は、ローマ帝国の社会において、大切にされた者たちであったということでもありませんでした。ローマの人々にとっては、ユダヤ人はあくまでもユダヤ人。自分たちにとっては都合のよい小間使いでしかなく、その者たちが自分たちの仲間だと思っていたわけではないのです。
このような徴税人という立場にある、レビには、本当に心を打ち明け、真実を話し合う関係にある者はいなかった。ローマ人からも、ユダヤ人からも、どちらにも受け入れらない者であり、どちらからも軽蔑されていた。レビには心と心を通わせて、一緒に笑い、一緒に悲しみ、一緒に生きる者はいなかったのです。このようなレビに、イエス様は声をかけ【「わたしに従いなさい」】(27)と招かれたのです。この招きに対して、レビは【何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った】(28)のです。
レビは、金持ちではありましたが、だれにも受け入れられていなかった。いつも孤独という状態から抜け出すことができない状態でした。このことを、ある人は、「精神的に破産していた」とも言っているのです。どれだけお金を持っていても、どれだけ裕福であったとしても、どれほど贅沢な生活をしていても、レビの心のうちは貧しく、孤独であり、生きている意味を見つけられない状態だったのです。イエス様は、このレビを招かれた。一人ぼっちであったレビ。周りから見れば裕福で、なんでも持っているような者でありながらも、実際のところは、本当に必要なものは何も持っていないこのレビを招かれたのでした。これがイエス様の招きなのです。
2: 罪人とは誰のことか
レビはイエス様の招きに応え、従い始めました。そして、まずイエス様のために宴会を催したのでした。ここには徴税人や、罪人たちとされる人々が集まってきたのです。つまりレビと同じように、社会に受け入れられない人たちが、この宴会に集まってきたのです。このことを見たファリサイ派の人々、律法学者たちは、イエス様の弟子たちに【「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」】(5:30)と言ったのです。このつぶやきは、「ただ、なんで・・・」といった質問ではなく、むしろ「あなた方も同じ罪人なのか。一緒に食事をするなら、あなた方も罪人とされますよ」と言っているのです。そしてもっというならば「そのような者たちは放っておいて、私たちと一緒に食事をしましょう。あなたたちは、そのような者たちと食事を共にするのではなく、私たちと食事をすることが正しいことなのですよ」と言いたかったのではないか、とも見ることができるのです。当時の格言では、「私は彼らの食べるのを見たが、それによって私は彼らが誰であるかを知った。」という格言があったようです。つまり、食事は、その人間がどのような者であるかを表すものとして、大切なものとされていたのです。そのような意味で、罪ある者とされた者、また徴税人のような裏切り者と嫌われていた人々とは、まず誰も一緒に食事をすることはなかった。そのような者たちと共に食事をするということは「自分も罪人です」と言っているようなものであったのです。
このファリサイ派の人々、律法学者たちの、つぶやきに対し、イエス様は【「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」】(5:31-32)と答えられたのです。この答えは、イエス様が御自分の宣教の目的を宣べられたとも言うことができます。イエス様は宣教の初めに【1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」】(マルコ1:15)と言われました。イエス様は、「罪人を招いて悔い改めさせるため」に、この世に来られたのです。
このイエス様の言葉、「私は罪人を招くために来た」という言葉から、もう一歩進んで聞くならば、「では、あなたは正しい人ですか。それともあなたは罪人ですか」と問われている言葉として聞くことができます。ここでつぶやいたファリサイ派の人々、律法学者たちに、イエス様は「あなたは正しい人なのですか、それともあなたは罪人なのですか」、と問われているのでもあります。
ファリサイ派の人々、そして律法学者たちは、聖書では、よくイエス様の論敵として登場します。そのため、なんだか悪者のようにも見えますが、実際のところは、社会の中でも、中流かそれ以下の者たち、どちらかと言えば貧しい者たちと共に生きた者であり、神様の教え、律法を厳守することを教えた人たちであったのです。ファリサイ派の人々、そして律法学者たちは、正しい者となろうとしていた。神様に従おうとしていた。そのために、律法を大切にし、律法を守ろうとしていたのです。ただ、ファリサイ派の人々、そして律法学者たちは、神様に従おうとする中で、律法を形式的に守ることばかりに注目してしまい、その律法の本質、神様の愛を頂き、神様を愛し、隣人を愛するということから離れて、ただ、律法を守ることだけに集中してしまったのです。そして、守ることが出来る人は、正しい者、律法を守ることができない者は、どのような理由があろうとも、罪人として考え、そこから人を裁くようにもなってしまったのでした。このようなファリサイ派の人々、そして律法学者たちに対して、イエス様は、「あなたは本当に正しい人ですか。むしろあなたがたも罪人ではないのですか・・・そしてそのようなあなたがたのためにも、私は来たのです」と語られているのです。
3: 罪人を招かれる方
この言葉、この問いは、私たちにも向けられています。「あなたは自分が正しい人だと思っているでしょうか。それとも、あなたがたは自分は罪人だと思っているでしょうか」と問われているのです。皆さんは、このイエス様の問いに対して、どのように答えることができるでしょうか。ここでいう罪人とは、ただ何か悪いことをした者ということではありません。罪人。それは心の中心に神様に来ていただくことから離れてしまう者であり、自分の心の中心に、自分が座り、まさに自己中心に生きている者。それこそ神様の御心を求めて生きるのではなく、ただ、自分のため、自分の思いで、生きている者を意味します。皆さんはいかがでしょうか。この問いに、「自分は正しい」と答える人はいないでしょう。聖書は、すべての人間は罪人であると教えています。そのうえで、神様の思いをすべて知り、神様の御心にそって、間違えることなく生きることができる人間は、ただ一人おられる。それが神の子でありながらも、人間となられたイエス・キリストなのです。
私たちには、いつも、どこかで、間違った道を歩んでしまいます。ひと時も、神様から目を離すことがなく生きることはできないのです。その意味で、すべての人間はどのような人間でも、神様の前にあって、同じところに立たされているのです。ここで言えば、徴税人も、そしてファリサイ派の人々、そして律法学者たち、そしてイエス様の弟子たちも変わることはなく、神様の思いから離れてしまうことがある。誰も、お互いを裁くことはできない。それこそ、自分を裁くこともできない。そのような者なのです。そしてだからこそ、そのような者を招くため、そのような者たちが神様の愛に触れ、何度でも悔い改め、喜んで生きるためにイエス・キリストは来られたのでした。これがイエス・キリストの福音。イエス・キリストの救いの出来事なのです。イエス様の招きは、すべての人間に向けられています。徴税人も、ファリサイ派の人々、そして律法学者たち、イエス様の弟子たち、そして私たちにもです。イエス様はすべての人間を招かれているのです。
4: 悔い改める
今日の31、32節の言葉、【医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。】(ルカ5:31-32)という言葉は、同じような言葉がマルコによる福音書、マタイによる福音書にも記されています。
ただ、ルカによる福音書だけには「悔い改めさせるため」という言葉があります。他の二つの福音書には、この「悔い改める」という言葉は入っていないのです。このルカによる福音書の、この箇所から、「悔い改める」ということを聞いていきたいと思います。悔い改めること。それは、これまで生きてきた、その生き方からの方向転換をすることです。自分が生きてきた、その道を続けていくのではなく、新しい道、新しい神様への歩みを始めること。それが悔い改めです。
レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という招きに対して、「何もかも捨てて立ち上がり、従った」のでした。ここで、レビは、新しい道を歩き出す者として、悔い改め、立ち上がったのでした。このときレビは、孤独から解放されたのです。誰も向き合ってくれない。誰も一緒に笑ってくれない。自分の心を理解してくれる人はいない。そのような孤独の中にあって、イエス様は「わたしに従いなさい」と招いてくださった。イエス様は「私があなたを愛している」「私があなたを求めている」「一緒に歩んでいこう」と語り掛けてくださったのです。この言葉を受けてレビは、このイエス様の言葉に従う者と変えられたのです。
同じように、イエス様は私たちにも語り掛けてくださっています。「私があなたを愛している」「私があなたを求めている」「一緒に歩んでいこう」と。私たちもこのイエス様の言葉を受け入れていきたいと思います。そしてイエス様が一緒にいてくださるという新しい道を歩んでいきたいと思います。イエス様は私たちが、神様の愛に触れ、共に生きる者となるように、共に生きることの喜びに気が付くために、私たちを招いてくださっているのです。イエス様は、すべての人間を招いてくださっています。そしてすべての者が悔い改め、新しい道を歩き出すことを願っているのです。私たちは、イエス様の招きに応えて、悔い改め、立ち上がりましょう。ただイエス・キリストのその福音にのみ目を向けて、立ち上げて頂きましょう。 (笠井元)