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2022.1.15 「神の恵みを記憶し、希望に生きる」(全文)  ルカによる福音書22:14ー30

今朝はバプテスト東福岡教会、教会組織70周年の記念礼拝です。明日16日が教会のお誕生日です。私は現在75歳になりますが、この教会は私より少し若いです。長老の木村章さんは90歳ですから教会に来られた時は、20歳以前のことです。秦三謝子さんは今年98歳になられます。教会組織当時はまだおられませんでしたが、この教会の一時代を担ってこられました。川口雅子さんは93歳になられるので、教会よりもう少しお年です。私たちは教会組織70周年を「記念」しているわけですが、「記念する」「記憶する」とは単なる「記録」とは違って「心に刻むこと」(erinnnern)です。

 

1.最後の晩餐の文脈:枠組み

 取り上げました聖書箇所はルカによる福音書22章14-30節です。いわゆる「最後の晩餐」の箇所です。そこに「記念する」という言葉が伝えられています。「これは、あなたがたに与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(19節)主イエスは、お自分のからだを象徴する「パン」と、苦難の果てに血を流され、それによって結ばれた新しい契約、つまり、一方的に神の赦しによって成立する契約の象徴として「葡萄酒の杯」を分かち合われました。この出来事を「記念しなさい」、繰り返し「心に刻みなさい」と言われています。

福音書はこの「最後の晩餐」を、ヘブライ語聖書の「過ぎ越しの祭り」の核組で伝えています。奴隷の地・超大国エジプトからの解放の際にヘブライ人の住まいに小羊の血を塗り、エジプトの長子を打つ者が血を塗られた家を過ぎ越したという言い伝えに基づいています。元来、遊牧民族の祭儀がイスラエルによって歴史的意味を与えられ、更に、イエス・キリストの歴史によって再解釈されて現在の「主の晩餐」へと数千年引き継がれていることになります。主なる神がイスラエルのために解放の働きをして下さったことを「思い起こす」(ヘブライ語:ザーコール)を受け継いで、主イエスの死を「記念すること」(ギリシヤ語:アナムネーシス)をキリスト教信仰では重要なものとしてきたわけです。

 

2.記憶すること:感謝すること、希望すること

ここで「記憶すること」「過去の出来事を思い起こすこと」について少し考えてみましょう。ローマ帝国が綻び、キリスト教信仰が地中海沿岸に住む人々の新しい大きな枠組みとなることに貢献した人に、アグスチヌスという人がいます。(354430年)彼は、『告白』第11巻で「時間」について考えています。まず、時間を考えるとき、過去―現在―未来あるいは未来―現在―過去へと「流れていく時間」川のような時間があります。「クロノス」と言いますが、これはギリシヤ神話では、自分の子どもが生まれたらすぐ食べてしまう神様です。人は時間にのみ込まれてしまう儚い存在であると言うのです。しかし、ギリシヤ語には、「カイロス」という語があり、これは、逝く川の流れていく「時間」というより、その瞬間、瞬間、神が備え、人間がそれに応答する「質」的な考え方です。アウグスチヌスによれば、現在するものはまさに「現在」だけであり、過去とは「もはやない」「もはや存在しないもの」です。ですから現在に集中せず、いたずらに過去を引きずりながら生きることは「後悔」と言います。今更、「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と考えても所詮意味はありません。また、「未来」とは「いまだない、いまだ存在しないもの」であり、現在に集中せず、未来をただ夢見て無駄な時間を過ごすことを「幻想」と言います。「今日の苦労は今日一日で十分」(マタイ6:34)です。ですから、「幻想」だけでなく、「取りこし苦労」も問題でしょう。

 しかし、アウグスチヌスは言います。過去とは「かつてあったもの」とも言えます。それを私たちは「感謝」と「悔い改め」によって現在、経験できると言います。また、「将来」とは「まさに来たらんとしているもの」であり、私たちは現在それを「希望」において経験できると言います。現在への心の集中が必要になります。先日上京した際、弟が本をくれたのですが、内館牧子の『老害の人』という本です。「先々のことなど考えないから、若者なのだ。先々がないから昔のことばかり言うのが老人なのだ」とありまして、苦笑しましたが、アウグスチヌスよりも内館牧子の方が分かりやすいでしょうか。過去は感謝として経験され、将来は希望として現在経験されます。

 

3.主イエス・キリストの愛と慈しみの記憶

 ルカ22:19はイエス様が弟子たちを愛された、その体と血を捧げて最後の極みまで愛し抜かれたことを主の晩餐を通して繰り返し、「記念」「記憶」せよと言っています。私たちは毎月第一主日に主の晩餐を行っているわけです。他の教派では晩餐卓は講壇の上、中心に置かれていますが、バプテストは聖書の言葉と説教を中心にしますので、まあ、晩餐卓は会堂前方の床に置かれています。パンとぶどう酒の上に白い布が置かれています。私は時々、葬式であの場所に遺体が安置されていることと重ねて考えてしまいます。その連想はかなり聖書的であると思います。ルカ22:2627にこう書かれています。「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中で一番偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者、(つまり、仕える人ですが、)とはどちらが偉いか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」このように書かれていますが、実際ここでイエス様はお給仕係をされているわけではありません。食卓の席についておられるわけです。ここで連想です。レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」とは違い、当時は横になり寝そべって食事をしていたのです。主イエスがそこにあたかも死者のように横たわっておられる。それこそが主イエスの最高の奉仕である。仕える方として、給仕する人として、なすことのできる最高のことではなかったのでしょうか!長野県の松本蟻ケ崎教会の老いた男性の話を聞いたことがあります。彼はアジア・太平洋戦争の時、南方の島で飢餓状態でした。そこで人間の肉を食べてしまったとのことです。その肉体が生きていて殺して食べたのか、死体であったのかは分かりません。しかし、戦地から日本に戻ってきた時、戦争中であり、しかも飢餓状態であったとは言え、人の肉を食ってしまった事実が忘れられない後悔となって彼を苛んでいたそうです。しかし、教会に来て、主の晩餐に与り、主イエス様が「取って食べなさい。わたしの身体だ」と言って下さるその一点で過去の自分の業が赦され、感謝と悔い改めに生かされているそうです。自分を分け与えることは、こどもたちはクリスチャンの漫画家やなせたかしの「アンパンマン」を知っているでしょう。自らの顔を差し出して食べさせるのがアンパンマンです。イエス様はアンパンマンです。

 東福岡教会の70年間、いろいろなことがあったことでしょう。しかし、どのようなことであれ、この教会の過去を、キリストの赦しのゆえに溢れる「感謝」を持って記憶しましょう。木村章さんは教籍番号が一桁であると聞いていますが、この教会の歴史の証人としてここにおられることに心から感謝と喜びを分かち合いましょう。「わたしたちのために」与えられているキリストの身体・いのち、「わたしたちのために流された血潮」を、感謝を持って受け取りましょう。

 

4.悔い改め:感謝と共に

 最後の晩餐の記憶は弟子たちの弱さ、よりによってその先生が死を覚悟している、そこに横になっているその時に、「だれがいちばん偉いだろうか」と言い争っていたという事実の記憶と共に伝承されているのです。21節‐23節にはユダの裏切りと、それが弟子一人一人の現状であったことが記憶されています。あのペテロが主イエスへの信仰を語る時、三度イエス様を拒んだことを共に語らざるを得なかったように、また、あのパウロが福音宣教の際に、自分はキリストとその体である教会を迫害していた者であることを告白することを抜きにしては福音を福音として語れなかったように、東福岡教会は「悔い改め」なしに過去をただ感謝することはできないことでしょう。過去、教会員として、教会として「至らない点」があったに違いありません。この度は「バプテスト東福岡教会 教会組織70周年記念誌」の原稿をタイプしながら考えさせられたのですが、幼稚園がらみで少なくとも2度教会分裂の危機があり、もう少しうまく対処できなかったのかという反省があるでしょう。基本的には、説教で個人の名前に言及したくないのです。何十年も教会を支えてこられた人たちのすべての名を呼ばなくてはならないからです。しかし、敢えて言えば、教会と幼稚園を存続させることに対しては鶴見健太郎さんの役割は大きかったと思いました。

私は神学生時代の三年間(70年から73年)この教会でお世話になり、そして、この十年、東福岡教会に加えられてきましたが、この教会は、日本社会に生きる教会として政治・経済・社会的権力によって個々に分断・差別されてきた人々の傍らにいるという「歴史的課題」に十分取り組めてきたかどうか、教会の外の社会で進行する重たい課題を担えてこられたかどうかが問われているでしょう。それでも、皆さんはかなり忍耐強く、皆さんが立てておられる牧師を背後から刺すようなことをされず、教会を支えてこられたことは素晴らしいことであると思います。私はいろいろな問題を感じてはいますが、この東福岡教会を誇りにしています。悔い改めと共に、感謝しましょう。

 

5.主イエスのある希望:喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く

 

 この教会の70年間の歩みを踏まえて、これからの70年をどのように展望するでしょうか? ルカ222830節には、「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの一二部族を治めることになる。」とあります。まさにすぐ後で主イエスを見捨てて逃亡した弟子たちを知っています。女性たちは「仕える者」として、十字架の近くにい続けましたが。そのような主イエスを見捨てて逃亡した弟子たちでしたが、彼ら彼女らが殉教の死に至り、日本社会でも多くの殉教者たちがおりますので、この「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」というイエス様の優しさには面はゆい感じがしています。そして、また、支配権とか王座とかいう表現が権力闘争や戦争の正当化に用いられてきた歴史と現在の大問題を惹き起こしてはいないかと思わされています。私たち一人一人がその責任を負わされています。そのような思いがありますので、東福岡教会の将来については、もう一カ所の聖書の証言を引用します。ローマの信徒への手紙12:15節です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」今後の東福岡教会の具体的歩みについては牧師や執事会、教会総会での議論に委ねることにします。幼稚園と教会の関係を壊さず、連絡と祈りを密にすることも大切でしょう。そして、静かに祈ること、祈りを繋ぎ合わせて行くことも大切です。そしてまた、教会員同士、教会の外に生きる人たち、特に、社会的に周辺化され、超高齢化や病気や孤立感を深める人々と共感・共苦する教会でありたい。これが希望です。ルカのテキストに即して言えば、他者に「仕える人」(diakonōn)でありたいと思います。そのような教会は人の評価はどうであれ、社会の評価はどうであれ、やがて、高く引きあげられるに違いありません。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く。」そのような教会であれば良いと思います。(松見俊)