1: 計画の変更による不信感と弁明
この箇所はパウロがコリントの教会に行く計画を変更したことによって、コリントの教会に不信感が生まれ、その不信感に対するパウロの弁明の言葉となっています。パウロの計画が、どのようなものであったのかは不確かです。一つの考えとして、第三次伝道旅行の時に、マケドニアからコリントに二回立ち寄る計画だったのが一回だけの訪問に変更されたと考えられています。
パウロは設立の時からコリントの教会に関わってきました。コリントの教会の人々はパウロが来ることを楽しみにしていた。コリントの教会の人々は、パウロの語る福音を求めていたというよりも、パウロを求めていたのかもしれません。
パウロがその計画を変更する中で、コリントの教会にはパウロは誠実な者ではない、その言葉も信用することはできないと考える者が現れたのです。「然り」と言いながらも「否」と言い、「否」と言いながらも「然り」と言う。パウロの言うことはコロコロと変わると考える者が現れたのです。
不信感が生まれる中にあってパウロは弁明をします。12節で、パウロは、「人間の知恵」と「神から受けた純真と誠実」を対比させて語り、自分のことを疑わしいとする者は、「人間の知恵で語り、行動する者」で、自分は【神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。】(12)と語るのです。
2: 言葉と使徒職の正しさを理解することを望んでいる
パウロは【わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。】(13)と言います。パウロは、コリントの人々に、自分の手紙はあなた方が理解できるように書いてきた。何かを隠したり、分からないようにしたり、行間を読み取らなければならないといった、理解できないことは書いていないと言うのです。だからこそ、あなたがたに語った福音は、間違いであったり、何か隠したものでもなく、この言葉に問題があるとか、何かが足りないということはないとしているのです。
口語訳では13節と14節は分けられており、14節ではこのように言っています。【すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。】(14)(口語訳)パウロは、コリントの人々に、自分の言葉は理解できるものであり、自分の語ってきた福音に嘘や偽りはなく、だからこそ、自分の使徒職の正しさも理解できるだろうと教えているのです。
3: 神の計画は「然り」「アーメン」として実現した
人々の不信感に対して、パウロは、自分の計画は、「軽はずみなこと」(17)ではないこと、「人間的な考え」(17)によるものではないことを語ります。使徒言行録では、パウロが神様の御心を求めつつ、歩み続けたことが語られています。(使徒言行録16:6-10)
パウロは自分の心変わり、自分の都合などのために計画を変更するのではないとし、23節では、【神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。】(23)と、コリントの人々のために計画を変更したと語るのです。
同じように、自分が伝えてきた福音、シルワノとテモテが伝えた「イエス・キリストによる福音」も変わることがないことを教えます。神の約束は、イエス・キリストによって「然り」だけが実現した。神様の救いの恵みはイエス・キリストによって成就された。この福音は「否」となることはないと語るのです。
4: 御心に従う
私たちは、このイエス・キリストの福音を中心とする、神様による約束、神様の計画に与り、その導きに従い歩んでいきたいと思います。私たちは日々小さなこと、大きなことで、様々な決断に迫られます。私たちは「人間的な考えによる判断」ではなく、神様の御心を求めていきたいと思います。以前CSの時にネヘミヤ書から学びましたが、神様の御心がどこにあるのか、人間にはなかなか分かりません。人間的に良い方に流れたからといって、それが本当に神様の御心かはわかりません。同じように、どれほど悪いことが起こったとしても、そこに神様の御心があるかもしれないのです。だからこそ、私たちは、神様の御心を求め続けていきたいと思うのです。神様の御心は「神様を愛し、隣人を自分のように愛する」というところにあるでしょう。
5:キリストに結ばれた交わり
最後に、パウロは、21-22において、コリントの人々と、自分とを結びつけているのはキリストであり、自分たちは、神様に油を注がれた者、神様に選び出された使徒であること、神様の証印を受け、心に聖霊を受けた者であることを語ります。そしてパウロたちは、コリントの人々と、キリストによって固く結ばれていることを語ります。教会は、キリストによって結ばれた者の集まりです。だからこそ、私たちは、自分の弱さを分かち合う者とされていきたいと思うのです。どれほどの失敗をしたとしても、お互いを赦せないようなことが起きてしまっても、私たちは、キリストに結ばれた者として歩んでいきたいと思います。(笠井元)