1: 断食について 律法への対応
私たちは、今日の箇所を理解していくのに、まず、ルカによる福音書の著者とされるルカの意図、そしてその記された背景を少し見ていきたいと思います。今日の箇所の著者である、ルカは、その著作として、ルカによる福音書と、もう一つ、使徒言行録を聖書に残しています。このことから分かるように、ルカの生きた時代は、使徒言行録・・つまり、イエス様の使徒たちが、キリストによる福音を宣べ伝えていった言葉と行いを記した、使徒言行録の記された時代であり、それは、福音が、ユダヤ人社会から異邦人社会へと、その輪が広がっていっていた時代でした。そのような時代において記された、この今日のルカによる福音書では、最初のキリスト教会が、異邦人社会に広がる中で、ユダヤの社会、ユダヤの律法という、これまでの教えに対して、ユダヤの人々と異邦人の人々と、共に、どのように考え、どのように対応していくべきかをも、記しているものとして、見ていくことができるのです。
そのような、ルカによる福音書で、今日の箇所では、まず、人々がイエス様に語りかけることから始まっています。ここで言われている「人々」とは、その前の箇所に出てきた、ファリサイ派の人々、そして律法学者の人々のこととなります。このファリサイ派の人々、律法学者の人々と、イエス様が「断食」についての問答をすることによって、この箇所では、ユダヤの社会において重要視されていた、断食について、どのように対応するべきかを見ることができるのです。そして、また、それは断食のみならず、ユダヤの社会において、当然とされてきた律法に、これから異邦人伝道をする中で、どのように対応していくかを、語っているのでもありました。ユダヤの社会・律法では、その祈りと施しと同じように、大事なものとして断食が置かれており、その社会の中では、断食することが、当然であり、断食することが、正しい生活であると考えられていたのでした。
2: 救いを得た者が生きるために与えられた律法
そのようなユダヤの社会において、ファリサイ派の人々、そして律法学者の人々は、このように言いました。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(ルカ5:33)これは、「ユダヤにおいて、ファリサイ派の人々も、またヨハネの弟子たちも『断食』を大切にしている。しかし、あなたがたはなぜこの『断食』というユダヤの教え、律法を守らないのですか」と尋ねている。尋ねているというよりは、「あなた方は律法を守らないのか」と批判しているのです。この言葉に対して、イエス様は、今日の箇所の34-35節において「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたにできようか。しかし花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」(5:34-35)と、答えられたのです。イエス様は、この言葉において、断食することを完全に否定もしていなければ、強く肯定しているわけでもありません。イエス様は、断食をすることが良いことなのか、それとも悪いことなのかといったことは言っていないのです。イエス様の教え。それは人間が、何かをすることによって、自分は正しいと思うこと、または、何かをすれば救われると思うこと、そのこと自体に問題があることを指摘されているのです。
ユダヤの社会は、律法という多くの決まりによって成り立っており、そのような律法を守ることによって、正しい者とされる、「自分は、何かをしているから正しい」という思いに囚われていたのでした。私たちも、もし、「このようにしたら、あなたは救われる」、「あのようにしていれば、それで大丈夫、良いことが起こる」と聞けば、そのようなことを、してみたくなるのではないのでしょうか。「このようにすることが正しい。それだけしてればよい」、そのような言葉はとても私たちにとって、理解しやすく、受け入れやすい言葉であり、ある意味とても魅力的な言葉なのです。しかし、このような一見、分かりやすい救い、分かりやすい解放は、・・・逆に、その行いから外れてしまった時、「あなたは正しくない、罪人である」となり、そのような教えを守らない時、その者は、「救いから外れてしまう」となっていってしまうのです。そしてそれは、人が人を裁くこと、またその存在を否定する、そのような危険性をも持っているのです。
ユダヤの社会での、律法、その本当の意味は、神様から与えられた恵みに応えて生きるため。その道を記されたのが、律法であったのです。まず、神様がイスラエルの民を憐れみ、愛をもって救い出してくださった。それは、イスラエルの民が何かをしたからではなく、ただ神様の一方的な憐れみによる救いの出来事でした。そして、その神様の一方的な愛による救いを喜び、神様の愛に触れて生きていくための道、その道をしめしているのが律法なのです。律法は、本来は、喜び、神様に仕えるための道筋を教える言葉なのです。
しかし、その律法を守ることに固執していく中で、救いを喜ぶ生活として示された言葉が、いつの間にか、救われるためのもの、自分が正しいと安心するものとなってしまった。つまり、救われたからではなく、救われるための教えとなってしまい、結果、自分が正しいとする言葉、または律法を守らない人を裁く言葉となってしまったのでした。
3: 花婿が奪い取られた
今日の箇所では、そのような律法に固執する、ユダヤの社会に対して、イエス様は、その考え方を指摘されたのでありました。この34-35節で言われている、花婿とは、メシア、イエス・キリストのこととなります。ここで「花婿が一緒にいる」とは、その通り、「イエス様が一緒にいてくださる」ということとなります。これは、「断食をする必要がない」というよりも、食事をすることで、イエス様が一緒にいてくださることを喜ぶことを教えているのです。イエス様は、この前の箇所にあるように、徴税人や罪人と一緒に宴会をしました。そして、それは「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われたのです。それこそ、当時、罪人とされ、社会のはみ出し者とされた人々と、共に食事をすることで、イエス様は「私はどのような者とでも共にいる」「共に生きることを喜びましょう」と教えられたのです。そして、だからこそ、今、この喜びを中断することとして、断食をする必要はないことを教えているのです。
それに続けて、イエス様は「花婿が奪い取られる時が来る」と言います。これはイエス・キリストの十字架の時を意味します。イエス様は徴税人といった社会のはみ出し者、罪人とされる者たちと共に食事をし、共に生きられたのです。そして、その結果、社会には受け入れられない者の代表として、十字架という、当時の一番むごい殺され方で、死なれていったのです。
これがこの世、私たちの生きる人間の社会なのです。この世は、共に生きることではなく、自分だけが正しい者とする社会であり、お互いを助け合い、喜びを分かち合うことではなく、お互いを陥れ、お互いを裁き合う社会なのです。イエス・キリストは、そのような人間の作り出した正しさ、人間の自分勝手な裁きによって、罪人の代表として、十字架の上で死なれたのでした。神様は、イエス・キリストが十字架の上で死なれることで、この人間の自分勝手な思い、お互いを裁きあい、苦しみ合う、そのような人間の思いを受け止められたのです。イエス様は、この十字架の時、「あなたがたは断食することになる」(35)と言われました。
断食。それはただ、食事をしないということをするだけでは何の意味もないのです。断食は、その行為をすることで、神様に礼拝し、祈るのです。つまり、イエス・キリストの十字架による救いを、覚え、喜び、受け取るための行為です。わたしたちが断食をするとき、つまり、礼拝し祈る時、それは、イエス・キリストの十字架を覚える時です。
ここで、イエス様が教えられていること。それはただ、その行為として「断食をしなさい」ということではありませんし、そのことによって「何かを得ることができる」と言っているわけでもないのです。イエス様は、まず自ら命をかけて、私たちを愛してくださった。しかし、私たちはこのことを忘れてしまう。それこそ、何度も何度も、救いの恵みを頂いているということから離れてしまう者なのです。イエス様は、そのような私たちに、「あなたは愛されているということを忘れないために、礼拝し、祈りなさい」と教えられている。「断食する」。それは、イエス・キリストの十字架による救いの出来事を、思い起こすために、礼拝し、祈り続けていなさいということです。
4: 自分に頼るのではなく、キリストにより頼む
この後、イエス様はたとえ話をされます。このたとえ話は、新しい服を裂き、古い服に継ぎを当てたり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてもうまくいかない、という話となります。このたとえ話をもって、イエス様は、断食の問答を通して言われたように、当時のユダヤの社会においてなされていた形式的な律法、そのような古いものに、新しいもの、新しいイエス・キリストの福音の言葉は、とらわれる言葉ではないと語られたのです。ユダヤにおいて、その社会では、何をすることが、神様に向かうためなのか、神様に向かう一歩は、何なのか、それはすでに律法で定められていました。そこでは自ら考えること、自ら悩むことがなかったのです。だからこそ、イエス様は、自らが、神様に向かうために、今一度、歩みだすこと、神様に出会うこと、そのために自分はどうすべきなのか考えることが必要だと教えられているのです。イエス様は、私たちに、自ら、神様に向かうため、そのために、祈り、求め続けなさい。そして、神様に目を向け続けなさいと教えられているのです。
私たちにとって、「こうすることによって、自分が正しいとされる」、「そのことによって、自分が救われる」とする形式というものは、とても私たちを安心させます。私たちは、自分で考え、悩み、また自分の心を見て、神様の御心を求める。そのように生きるよりも、「形式で決まっているもののほうが楽だ」と思うのではないでしょうか。「何かをすることによって救われることはない」「何かをすることによって正しいとされることはない」と言いますと、私たちは不安になり、自分がどこに立てば良いのか、どこに立つことで、神様から正しいとされるのか全く、分からなくなってしまうのではないでしょうか。
そのような私たちに、イエス・キリストは「正しいのは、あなたがたが何かをすることではなく、私が正しいのであり、私に望みを置きなさい」と言われているのです。私たち人間が、本当の弱さの中で、苦しみ、そして絶望し、「もはや何をしても救われない」「もはや何をしても正しいとはされない」と考えるような中で、イエス・キリストは、そのような自分自身の力に目を向けるのではなく、むしろ、主である方、イエス・キリストにこそ目を向けるようにと語られているのです。
私たちが考える「何かをすることによって」という形式は、自分自身の力や能力に頼ったものであり、そのような人間の力や能力によって、神様の前で正しいとされることはありえないのです。私たちは、そのような自分自身に頼るのではなく、イエス・キリストに目を向け、そしてイエス・キリストによってのみ、正しいとされていきたいのです。人間の本当の弱さ、本当の苦しみを知っておられる、イエス・キリストは、どのような時、どのような絶望の中でも、私たちが「もはや何をしても救われない」「もはや何をしても正しいとはされない」とされるような中でも、イエス・キリストは、私たちと共にいてくださる。そしてそのような私たちに「あなたは価値ある存在である」「わたしはあなたを愛している」と教えてくださっているのです。
5:1 御心を求め続けなさい
わたしたちには、いつ、何をすればよいのか、決まったものはありません。ただ一つ言うならば、神様に愛された者として、全身全霊をもって神様を愛し、隣人を自分のように愛する。この指針をもって、日々、どのように生きればよいのか、悩みつつ、神様の御心を求めつつ、生き続けるということです。神様は、私たちを愛するために、御子イエス・キリストを送ってくださいました。私たちが、この神様の愛に応えて生きるためには、どのように生きるべきなのか、日々、求め続けていきたいと思います。私たちは、ただただ、主イエス・キリストによって救いを得たのです。そしてだからこそ、この救いを受けた者として。神様に感謝し、神様の愛を現すために、この世に神様の国が現わされるために、どう生きるべきか、考えていきましょう。(笠井元)