1: 安息日の論争
イエス様の弟子たちが麦の穂を摘んで食べるという行為は、当時のユダヤの社会では律法に触れる行為ではありませんでした。ユダヤの規定は貧しい人、飢えた人に救いの手を差し伸べるためにもあったのです。問題は、麦の穂を摘んだのが、安息日であったということです。ファリサイ派の人たちや律法学者たちにとって十戒の安息日の規定を破ることは大きな罪の行為とされたのです。
また、安息日でも命に関わる緊急性がある治療行為は認められていたようです。ただもう長年に渡って病にかかっている「右手のなえた人」が、治療を受けるのに、わざわざ安息日に行う必要はないと考えられたのです。
2: 解放を喜ぶ日
神様は、イスラエルの民に向かって、「あなたがたは、かつては奴隷だったが、神様によって解放され自由にされた。だから、そのことを思い起こすために、安息日を守りなさい」と語られているのです。安息日は主なる神様によって、自由と解放を得た解放記念日なのです。安息日は、息子も、娘も、奴隷も、家畜も、外国から来て滞在している人たちも、みんなで神様の救い、奴隷からの解放を喜ぶ記念日です。
3: 原点に立ち帰る
イエス様は安息日を原点に帰って考えることを教えられているのです。右手が萎えていることによって神様を礼拝する会堂でも隅っこの方に追いやられていた人に向かって、イエス様は「立って、真ん中に出なさい」と言われたのです。イエス様はこう言われます。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(ルカ6:9)
4: 復活を覚える日
イエス様の行いは律法学者の人々やファリサイ派の人たちの反感を、一層駆り立てたのでした。その怒りが、やがてイエス様を十字架刑へと送ることとなるのです。神様はイエス・キリストの十字架を通して、すべての貧しい者、すべての飢えている者、孤独で悲しむ者のところに来られたのです。そしてイエス様は、十字架の死の三日後、よみがえられたのです。神様はイエス・キリストの復活によって、すべての人間に自由と解放を与えられたのです。イスラエルがエジプトの奴隷から解放されたように、私たちすべての人間は、このイエス・キリストの十字架と復活によって、罪の奴隷から解放されたのです。これが私たちに与えられている、喜びの出来事、解放の出来事なのです。(笠井元)