1: 不信感への対抗
パウロは、コリントへの旅行の計画の変更をしました。この旅行の計画の変更は【あなたがたへの思いやりから】(1:23)だと言います。口語訳では【あなたがたに対して寛大でありたいため】(1:23口語訳)と言います。パウロは【神を証人に立てて、命にかけて誓います】(1:23)と言います。このような言葉を使わなければならいのは、それほどにコリントでのパウロへの不信感が大きくなっていたと考えられるのです。
2: 問題の変化
パウロは、コリントの教会の創立者の一人でした。コリントの手紙の第一3章4節から「パウロは植え、アポロは水を注いだ」とあるように、パウロが教会を立ちあげ、アポロが教会を形成していったという流れを見ることができるのです。しかし、コリントの教会はイエス・キリストを中心とした信仰に励んで生きることからはずれ、「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と、その教えを知恵として比べるようになったのです。そして結果、分裂の道へと向っていったのです。パウロは、そのような分裂に向かうコリントの教会に向けてコリントの信徒への手紙第一の手紙を送り一致するようにと勧めたのでした。
今日の箇所は、パウロがコリントの教会を立てあげ、コリントの信徒への手紙の第一を送り、その後もう一度コリントに訪問し、そのあとに記された手紙(涙の手紙)の、その次の手紙となると考えられています。
ここでの問題は、パウロの言葉が、実のところ何の権威もないもので、その福音も真実ではないとされたということでした。そのようなコリントの教会に向けて、パウロは、【神を証人に立てて、命にかけて誓います】(1:23)と言います。つまり自分の語った福音が嘘であれば、死に至ることになってもよいというほどの決心をもって、パウロは「信じて欲しい」と願い、語ったのです。
3: 思いやるということ
パウロは【あなたがたの信仰を支配するつもりはない】(1:24)、【あなたがたを悲しませることはすまい】(2:1)と言いました。これがパウロの考える「思いやり」なのでしょう。
パウロは、自分がもしコリントに行くとすれば、その時は厳しく対応することになると考えました。12章にはこのような言葉があります。
【12:20 わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。12:21 再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。】(Ⅱコリント12:20-21)
コリントの教会では、多くの人々が、罪を犯し、みだらな行い、ふしだらな行いをしていたとされます。パウロはすでに一度コリントの教会に行き、厳しく教え、コリントの人々をひどく悲しませたと考えられています。そのため、パウロは、再び、あなたがたを悲しませることのないために、信仰を強制的に支配することになってしまわないように、計画を変更したとするのです。パウロは、コリントの教会を愛しているからこそ、叱責し、罰し、裁いてしまうことのないように、「思いやり」をもって、計画の変更をしたとするのです。
パウロは、自分は、コリントの人々が、悲しむためではなく、喜ぶ者となるために協力する者であると言うのです。しかし、コリントでは「パウロは、自分が使徒であり、自分が教会を建て上げ、自分が教会を支配するといった考えにあるのだ」と、自分たちを支配しようとしていると批判されていたのです。パウロは、自分は信仰を支配するためではなく、コリントの人々が喜びに満たされるために、協力する者だと主張しているのです。
4: あなた方を悲しませないために
パウロは、コリントの人々を悲しませないために、思いやり、また【悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙】(2:4)を書いたのです。この手紙については、一つの考えとしてⅡコリントの10章~13章がこの手紙の一部ともされますが、最近の主流な考えとしては、このパウロの「涙の手紙」とされる手紙は、現存していないとも考えられています。
パウロは、すでに一度コリントに行き、強く叱責し、人々を悲しませたのでした。だからこそ、再びそのようなことにならないように、まず手紙を書いた。そして、その手紙によって、【わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもら】(2:4)おうとしたのでした。
パウロは計画の変更をすれば批判が起こることも想像できていたと思うのです。しかし、それでも、計画を変更しました。パウロにとって、それはコリントの人々のために計画を変更したのです。ここには、自分のために生きることから、他者のために生きるという転換を行ったパウロの姿を見るのです。私たちは、自分が非難され、また侮辱され、不信に思われてでも、他者が悲しまないための道を選ぶことができるでしょうか。キリストの十字架に従うということは、まさにこのような姿と見ることができるのです。