モーセの十戒は、二つの石の板に刻まれており、一~四戒は神と人との縦の関係を、そして、五~十戒は、神における人間同士の横の関係について語っていると考えられています。今朝は五番目の戒め、「あなたの父と母を敬え」という戒めに耳を傾けてみたいと思います。「あなたの父と母とを敬え」という戒めを今日、私たちはどのように聞くのでしょうか。昨日は「建国記念の日」反対の集会とデモ行進に参加してきました。第五戒は、日本の国を神話に基づかせるような歴史観、家族制度、親と目上の人には服従しなさいという教えと、どこかで共鳴するような戒めなのでしょうか? 違います。まさに、逆です。この第五戒は唯一の神、自由へと私たちを解放する神の前で、この世界のものを絶対視しない、すべての事柄を批判することが目的です。皆さんは、「あなたの父と母を敬え」という戒めを今日、どのように聞くのでしょうか。この戒めによって、一方では、心が掻きむしられる思いを持つ人がいることでしょう。母親あるいは父親と、あるいは、母親と父親の両方との良い関係を築くことのできなかった人には、心深く抑え込んできたトラウマが疼くのです。親孝行をしようと思ってもすでに親はなくなっている人にとっても心が痛くなります。他方では、「父と母を敬え」という戒めはごく当然の、当り前のこととして、儒教や日本的道徳の基本として受け止められることでしょう。いや、最近の父親殺し、母親殺しの事件などを嘆き、この古いけれども人間にとって重要な戒めを懐かしむ人々もいることでしょう。皆さんは、「あなたの父と母とを敬え」という戒めをどのように聴くでしょうか。
1.主にあって親子の絆を考えてみる
最初に、第一の板と第二の板が不可分離であることを強調したいのです。つまり、「あなたの父と母とを敬え」という戒めによって、実は神を敬うことが問題となり、逆に、神を敬うことは、最も近い隣人である老いて、衰えた父母を敬うことから切り離すことができないということです。イスラエルにおいては、親と子との関係は単なる血縁関係ではなく、子は神様に属するものであり、この神様から地上の父母に委ねられているのです。また、子にとっては、逆に、親は神様から立てられた人たちであり、自分の前に神から置かれた人たちであるがゆえに、たとえ衰え、足手まといになり、時に疎ましく思われても敬われねばならないということです。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」ということ、つまり、私たちを愛し、あらゆる束縛から解放してくださった神との関係において、その神への応答において「父と母を敬え」という課題が与えられているのです。ですから、新約聖書では、エペソ6:1において「主にあって」両親に従いなさいと言われている通りです。「主にある」ということが重要です。十戒は言います。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができる」と。つまり、第五戒は、第六戒の「あなたは殺してはならない」というような一切の条件や約束なしの戒めではなく、この戒めは、たかだか、この世において幸せに生きるための知恵であって、何か永遠の戒め、声高に叫ぶべき中心的戒めというようなものではないということです。この限界づけこそ、私たちを親子の血による呪縛から解放し、自由に生きることを可能にするのです。ですからこの戒めは、儒教的・封建的社会の崩壊と共に、もうすっかり意味を持たなくなってしまった戒めではありません。1970年代ころから、全世界の学校、家庭、社会に押し寄せてきた「反権威主義」の大波の中で、まさに、集中的砲火を浴びた古い戒めではありません。あるいは、失われた古き良き時代の家族制度の郷愁を誘う戒めではありません。この戒めは、神様が私たちを自由にさせるための解放の戒めなのです。特に、現代に生きる私たち一人ひとりが真剣に考えねばならない救いの言葉なのです。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」ということと「あなたの父と母とを敬え」という戒めは切り離すことはできません。どのように親しい親子関係にも間に「神様」が介入されているのであり、親をあるいは子をあたかも神のようにしてはならないのです。また、どのように疎遠であっても親と子の間に神様がおられるということが親子関係の「安全弁」であり、希望なのです。
2.親子の絆の断絶の必要性
以上のことを踏まえて、第一に、親と子の「断絶」「切れること」の大切さについて考えてみましょう。創世記2:24では、「そこで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」と語られています。若い男女が伴侶としての他者を互いに愛し合い、共に生きていくためには、父と母から離れるという「切れ目」が必要であり、親離れ、子離れが大切であるというのです。実は「離れて」と翻訳されている「アーザーブ」はイエス様の十字架上での叫び、「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)では「見捨てる」と翻訳されている強い言葉です。血の繋がりのある、強い親子の絆をどこかで切って向かい合わなければ、両親を「見捨てる」ほどの覚悟がなければ、他者である伴侶を愛することはできないというのです。伝統的な家父長主義的な縦型社会が乗り越えられてはじめて、他者である二人が共に生きるという、新しい横の関係という、実に風通しのよい人間関係が生み出されたのでした。主イエスは言われます。「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか。そして、自分をとりかこんで、座っている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ3:31~35)。こうして私たちは教会において、互いに兄弟姉妹と呼び合う(今では差別を含んだ言葉ですが)、新しい社会に生きているわけです。最近、「尊敬する人はだれか」という問いに対して、「両親」と答える若者が増えているようです。それはそれで微笑ましいのですが、見本となる他の大人がいないということの裏返しであるのかも知れません。また、昨今、親を殺してしまう子供の事件の中に、「親との距離感のつかめない子、子との距離感をつかめない親」の問題がないでしょうか?親の気に入る子になろう、親に見捨てられたらどうしようと思う「愛着障害」の子どもたち、親の期待に押しつぶされそうな子どもたちの悲鳴が聞こえてきます。親への過剰な反応です。また、子のためと言いつつ、実は自分自身の果たせなかった夢を子供に押し付けようとする、あるいはあまりに一般的な価値観を押し付ける親のエゴイズムの問題もあるでしょう。また、国家の役割が肥大化して、「お国のために生きよ」とか「祖国防衛のために武器を持とう」というスローガンが、「父と母とを敬え」という道徳とセットにされてまたぞろ登場する機運がないわけではありません。儒教的、日本的、天皇中心の縦社会の再来です。そのようなことが期待されるまで、どこか家族が崩壊してしまった社会に私たちは生きているのです。しかし、どこかで、親子の絆の断絶が必要なのです。
3.親子の絆の受け取り直し:断絶の回復
それでは、十戒の第五戒はなぜ、わざわざ、「あなたの父と母を敬え」と言うのでしょうか。どこか断絶した関係をまた元に戻せというのでしょうか?ここで考えるべきことはこの戒めが若い人々、特に年老いて何もできなくなる親を抱えている人々に対して語られているということを心に留めておくことです。日本社会はまさに超高齢社会です。最近では、人種差別、性別差別、富める者の搾取による経済格差に加えて「エイジズム」と呼ばれる問題があります。若い世代に過重な負担を強いる年金と病院通いで「金くい虫」ではないかという、老人たちへの若い世代の冷たい視線、敵意の問題もあります。親の介護疲れ、認知症になった親への落胆もあるでしょう。最近では「老老介護」「認認介護」などと言われています。むろん、「幼老介護」と言い、親の介護、祖父母の介護で公的介護の道を知らずに、学校に行ったり、働きに出たりすることを諦めてしまう若者たちの問題もあるでしょう。どこの文化でも「姨捨山」の物語があります。そうならないように親は安楽死を選ぶべきでしょうか?子どもを養うことが精一杯で、とれも老いた親の面倒を見ることなどできないということ、迷惑を掛けたくないと思っているからです。この戒めは、食糧不足、経済的、社会的危機の中で、私たちを解放する福音として語られています。迷惑をかけてよいのです!「あなたの父と母を敬え」という戒めは、実に積極的な勧めです。親子の間の断絶の必要性だけではなく、神様への信仰において親を新しく「受け取りなおす」こと、新しい「関係の回復」が呼びかけられているのです。私たちには、親離れ、子離れどころか、親とうまく関係を結べない事実があるのです。子供のころは、あたかもスーパーマンのように尊敬していた父やマリヤさんのように憧れていた母は、知恵がつくにつれて尊敬できないものとなってきます。親は、しみもしわも傷もある弱い人間たちですから、その実態を見たら尊敬できなくなることでしょう。ここで、「敬う」(カーベッド)とは彼らに「重さを与えること」、「誠実に受け留めて、軽々しく評価しないこと」を意味します。私たちの父と母は軽くなってきます。体重だけではありません。幼児期には理想であった両親が、子供の成熟期には自由を妨害するもの、大人になると、足手まといに感じられてきます。切符を買うのにコインを素早く入れることができずに立ち往生します。バスの中で、大声でしゃべるので、他人のふりをして離れて座りたくもなります。私は銀行のトイレで奇妙なボタンに触り、警報器がなり、母に恥をかかされることもあります。自分の能力と周りの環境への目配りが鈍くなって、平気で大通りを横切り「ひやっと」させられます。彼らはあまり生産的(productive)ではなく、使いもの(useful)にもなりません。親の老化や認知症を受け入れるのは大変です。受け入れよう、受け入れようと思っても、受け入れることは困難です。介護者の悩みです。「あなたの父と母を敬え」とはこういう段階の両親を持つ子どもたちに、親が軽くなってしまった事実に直面して狼狽える人たちに向けて語られているのではないでしょうか。
ヘブライ語聖書の信仰によれば、親は神様から与えられているのです。両親は、そこからわれわれが由来し、自分では決して選ぶことの出来ない、ただ受け入れることができるだけの存在であり、決して自由に「作り出したり」「生み出したり」することのできない存在です。私のすべてに先立つ存在なのです。私たちがあたかも自分の力だけで成長し、生きていると錯覚したり、自分の成功を誇ったりするときに、思い上がった私たちの「限界」として与えられているのが両親なのです。たとえ彼らに信仰がないとしても、年老いた両親は、私たち一人一人が、他者の存在に依存し、他者によって生かされ、愛の中で共に生きる者であることを指し示している証人なのです。人というものは、まず、神という他者から呼ばれ、神に依存し、神に生かされ、神と共に生きるべきものであることを証ししているのです。私たちは、他者と共に生きるように造られているがゆえに、両親を敬うことは「正しいこと」であり、その時にこそ、私たちは自由なのです。
4.信心深い人々の誤りの可能性
特に信仰の深い人々への警告があります。主イエスは言われます。マルコ7:10~13を読みましょう。「モーセは『父と母とを敬え』と言い、『父または母をののしる者は、死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたがたは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、あなたに差し上げるべきものは何でもコルバン、つまり、神への備え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで、神の言葉を無にしている。」ここでは信仰的熱心さが父母を敬わず、新しい親子関係を受け取り切れない人の問題が明らかにされています。教会で奉仕をしたり、この世界で他者に仕えているからと言って、父と母を敬わなくて良いことにはならないのです。特に、両親を軽んじることを信仰的、神学的に正当化してはいけないのです。これは献身者としての私自身が聞き損なった戒めです。しかし、人は、特に、信仰者は「父と母を敬え」という戒めの厳しさに身を晒すほかないのです。こうして、主イエスは親子の断絶、「切れること」の必要性・大切さだけでなく、信仰による新しい親子関係の回復、信仰による、受け取り直しについても語っているのです。
もし、私たちが、両親が指し示すものを見ずに、人は神の恵みと他者の助けによって生きるのだということを見抜けずに、歴史的に先だつ先輩としての両親と共に生きることができずに、いたずらに思い上がり、両親への「敬い」を失う時、実はその両親に由来している自分自身をも失うことになるのです。もし人が、両親との一体化・理想化に生きる幼児・児童期を過ぎ、すべてから自由になろうとして両親を否定する自我形成期を経ても、神への信仰を持つことができなければ、それは親に依存する幼児性や、親に単に反発する青年期を脱することができていないことです。神が約束する、新しい生き方を生きることができていないのです。こうして、子の両親への敬いは、人間が本来持つべき神への服従のしるしなのです。「あなたの父と母を敬え」。「主にあって、父と母を敬え。」ある意味で現代が抱える家族崩壊の悲劇は、この戒めを正しく聞けていないことから生じているのです。私たちはこの戒めを喜ばしい解放の福音として耳を傾けたいものです。「あなたはあなたの父母を敬え。」