1: 使徒とは
今日の箇所は、小見出しに「十二人を選ぶ」とあるように、イエス様が弟子たちの中から十二人を「使徒」として選び出された場面となります。ルカによる福音書の著者、ルカは、もう一つ使徒言行録も記したと考えられていますが、その使徒言行録では、その名の通り、使徒たちの福音宣教の働きの姿が記されているのです。そのようなルカが、ここで、わざわざイエス様が弟子たちの中から12人を選び出し「使徒」と名付けられたというのです。そのため、ここでのこの使徒という言葉は、大きな意味、弟子から選びだされた者としての大切な意味をもって使われていたと考えられるのです。今日はまず、この使徒という言葉の意味を見ていきたいと思います。
この「使徒」の意味を、ルカは、この後に記されている使徒言行録で、のちにイエス様を裏切り、死んでいったイスカリオテのユダの代わりにマティアという者を選び出していく場面で、このように語っているのです。【そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」】(使徒言行録1:21-22)
新しい使徒としてマティアを選び出していく場面で、ルカは、使徒として、「イエス様がヨハネからバプテスマを受けた時点から、イエス様が福音宣教をしていく時、そしてイエス様が十字架で死に、復活され、天に昇られていくときまで、いつも一緒にいた者の中から・・・そして、主イエスの復活の証人となる者を選ぶべきだ」とするのです。この言葉を、時間的に考えて聞いていくと、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、ルカによる福音書の3章であり、その後、ルカの4章で、イエス様は福音宣教に出ていかれ、5章でペトロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブやヨハネ、そして徴税人レビなどが招かれていったとなっていますので、・・・実際のところ、そのような人がいたのかどうかとすると疑問が出てきます・・・ただ、この時のルカの言葉の意味としては、イエス様が選ばれた使徒とは、時間的なことよりも、イエス様といつも共にいて、その関係に置かれており、そして、主の復活の証人となる者だと見ることができるのです。
2:マルコ、マタイと比べての意味
そしてまた、この使徒という言葉の意味を見るときに、同じように、12人を選び出す、マルコ、マタイの福音書を見る中でも、特にルカが語りたかった意味も見えてくるのです。マルコによる福音書、マタイによる福音書においても、イエス様が12人を選び出された場面があります。ただ、そこでは、イエス様は、使徒を選びだすだけではなく、そこから、12人の使徒たちに権能を授け、宣教のために派遣するという記事もあるのです。
マルコによる福音書を見てみたいと思います。【イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。】(マルコ3:13-16)
マルコでは、12人を、自分のそばに置くため、そして派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるために集め、使徒と名付け、任命されたとあるのです。ここから見ることができる使徒の意味、それは、イエス様の権能を授かり、その福音宣教のために派遣された者という意味となります。マルコによる福音書で、イエス様は福音宣教のため、自分の働きを共に担う者として、12人を派遣されたのです。それがマルコにおいてイエス様が選ばれた使徒なのです。そして、この権能を授けるということ、派遣したという意味は、マタイによる福音書ではもっと明確に記されていきます。
それに対して、このルカによる福音書では、この権能を授けるとか、派遣するといった言葉は全く出てこないのです。ルカによる福音書では、純粋に、イエス様が12人を選び出したとだけあります。ルカは何を思って、イエス様が使徒を選ばれた記事を記したのでしょうか。この記事は、1節前に【ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。】とあるように、安息日についてファリサイ派の人々、律法学者の人々が、イエス様をどうにか殺そうと考え始めた後の記事となっているのです。イエス様は、このような危機に際して、今日の箇所では、まず祈りに向かわれた。そして一晩、眠ることなく祈り続けられ、その後に、使徒を選ばれたのです。つまり、イエス様は危機に際して、祈り、神様に向かわれ、その御心を受け、使徒を選ばれた。それは、イエス様が祈りのうちになされた業であり、イエス様の危機に、共に生きる者を選ばれたとも言うことができるでしょう。つまり使徒とは、先ほどもありましたように、イエス様と共に生きた者。危機においても、どのような時も、一緒に生きてきた者。そのような意味を持つと言うことができるのです。
3: 使徒として選ばれた者
しかし、ではこの選ばれた12人が、特に、イエス様を支えることが出来る強い人間であったかというと、そうではないのです。むしろ、使徒として選び出された12人は、弱さを持つ者たちでありました。
この使徒の筆頭とされる、シモン・ペトロは、この後イエス様のことを、三度も「知らない」と言いました。「知らない」ということは、ただ「知識として知らない」「面識がない」ということではなく、その関係を否定したこと、「イエスという人と自分は無関係である」と宣言したという意味となるのです。使徒として選び出されたペトロが、「イエス様と自分はまったく関係のないものだ」と三度も宣言したということです。
また、これはヨハネによる福音書の記事となりますが、使徒の一人とされる、トマスは、イエス様が生き返ったことを、他の弟子たちから聞かされましたが、そのことを信じませんでした。自分が見て、その目で確かめるまでは信じないとし、結果復活されたイエス様に、・・・【20:27 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」】、【20:29 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】(ヨハネ20:27、29)と言われたのでした。
そして、ここでは「のちに裏切り者となった」とあります、イスカリオテのユダもまた、イエス様は使徒として選ばれたのでした。最終的に自分を裏切る者、自分を見捨てる者、自分を死に追いやる者。イエス様は、そのようなものをも見捨てるのではなく、共に生きる者として選び出されたのでした。
そしてこの三人だけでなく、他の使徒も、同様に、イスカリオテのユダに裏切られ、イエス様が十字架の上で苦しまれていくとき、結局、誰もついていくことはできなかった。それこそ、イエス様によって選び出された者は、だれもイエス様に従い続けることができず、すべての者がイエス様を疑い、逃げ出していったのです。
これが、イエス様が選び出した「使徒」の姿です。それこそ、自分自身の力では、何もできない者。イエス様に従っていくこともできず、少し問題が起こると、すぐに離れ逃げ出してしまうような者。イエス様を裏切る者。しかし、イエス様は、そのような者たちを自らの使徒として選び出されたのです。
4: 祈りの中で選ばれた使徒
イエス様は、この使徒を選びだす前に、祈られました。しかもそれは一晩中、祈り続け、一夜を過ごされたのでした。ルカによる福音書では、このイエス様の祈りが何度も記されます。イエス様がバプテスマを受けられるとき、ペトロがイエス様を救い主と告白するとき、またイエス様の姿が変容されるとき、ペトロの裏切りの前に、そして、十字架の前にオリーブ山で、そのほかにも、多くの場所で祈られた場面が記されているのです。イエス様は、一晩中祈り、12人の使徒を選ばれました。その祈りの中で、イエス様は、弱く、裏切り、逃げていくものを、自らの使徒として選ばれたのです。
祈りとは、神様との会話です。イエス様は神様に何度も問いかけたのでしょう。この12人を選び出すことが神様の御心なのかと。このような弱い者、裏切る者、自分を見捨てて逃げ出す者たちが、イエス様と共に生きて、神様の福音を現す者なのかと。イエス様は、神様との関係の中で、一晩中祈り続けられ、そこに、神様の御心があると信じて、この12人を選び出されたのです。
皆さんは、自分の弱さを知る時はあるでしょうか。私たちは、自分の弱さを知らされる時、その弱さに打ちのめされ、そのような自分を惨めに思ったり、自分の存在を否定してしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、だからこそ、私たちは、自分の弱さを見るときに、このイエス様の祈りと選びを思い起こしたいと思うのです。イエス様の祈り。そしてイエス様の選び。それは、信仰を忘れ、イエス様を裏切り、イエス様から離れ、逃げ出していく者へと向けられているのです。私たちがイエス様を忘れたときも、イエス様を知らないと言うときも。イエス様の復活を信じることができないでいる時も、イエス様は、そのような私たちと共におり、そして祈ってくださっている。そしてそのような弱さを持つ者を、自らの使徒、自分と共に生きる者として選び出してくださるのです。イエス様は、私たちを愛し、受け留め、そして祈っていてくださいます。私たちは、このイエス様の思いを受け取りたいと思うのです。イエス様が、自分を愛してくださっている。どれほど自分のことを嫌いになったとしても、自分の存在を否定したとしても、その私たちをイエス様は愛し、認め、自らと共に生きる者として選び出してくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストの祈り、そして共にいてくださるという恵みを、そのまま受け取りたいと思うのです。
5: 使徒として生きる
このあと、今日の箇所で選ばれた12人の使徒たちは、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活され、そして、天に上げられ、今も共にいて、祈っていてくださるという、その恵みを受け取り、力づけられていきます。イエス・キリストの、その十字架と復活の恵みを受け取る中で、12人の使徒たちは変えられ、その福音を表す者とされていくのです。それは、彼らの信仰が強かったからでも、彼らが優れていたからでもなく、彼らは弱く、小さい者であったのです。しかし、だからこそ、そのような弱い者が、イエス・キリストの福音を受けて、その福音を表す者と選ばれているのであり、そのような者が、イエス・キリストの福音によって、神様の栄光を表す者とされていくのです。 私たちもまた、このイエス・キリストの十字架、そして復活を知り、そして今、共にいて祈り、導いていてくださることを知るのです。私たちは、この使徒たちと同じだけの恵みを受けているのであり、また同じだけの福音に与っているのです。それは、私たちが、優れているからでも、力があるからでもないのであり、何もない、私たちに、イエス・キリストが、十字架と復活によって、恵みを与えてくださり、また今も共にいて祈っていてくださることによるのです。
わたしたちの教会は今年の1月に70周年を迎えました。この70年間、私たちの教会は、多くの人々の信仰によってつなげられてきました。ただ、その信仰とは、人間としての強さや、人間としての神様に対する熱心さではなく、むしろ人間としての弱さであり、そのために祈ってくださっているイエス・キリストの祈りによるものなのです。わたしたちは、今、新しい歩みを始めていきたいと思います。これからも、もちろん共に喜びを分かち合うときもあれば、共に苦しみ、共に泣き、痛みの中で歩むときもあるでしょう。私たちは、そのような中にあって、自分たちの力ではなく、ただ、イエス・キリストの祈りによる選び、イエス様が共に生きてくださり、私たちを使徒として、主イエス・キリストの十字架と復活を証言する者として選び出してくださっているということを思い起こしていきたいと思います。私たちはただ、イエス・キリストの祈りに支えられ、この祈りがあることを受け取って歩んでいきたいと思います。何よりも、主イエス・キリストを中心に、つなげられ、その恵みに共に繋がる者たちとして、歩んでいきましょう。(笠井元)