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2023.2.22 「赦し、力づける者とされる」 Ⅱコリントの信徒への手紙2:5-11

1:  悲しみを共有する 

 ここでは誰かが、パウロを悲しませ、コリントの教会の人々を悲しませるようなことを行ったことがわかります。具体的には、どのような人が何をしたかということは全く記されていないのですが、当時のコリントの教会では、【悲しみの原因となった人】(Ⅱコリント2:5)という書き方で、誰が何をし、何が起こったかということは理解されたのでしょう。推測ではパウロの使徒性について攻撃をした者であったと考えられています。パウロは、「自分の悲しみは、教会の悲しみとなる」という繋がりを語っているのです。

 

2:  赦すこと 

パウロは、パウロを悲しませようとし、教会全体を悲しませた者は、すでに十分な罰を受けたとし、その者が悲しみ、打ちのめされないようにしなさいと言うのです。「罰」とは、別の訳では「処分」とされおり、パウロは、その者が絶望するのではなく、悔い改めるようにと教えているのです。ここでの「赦す」という言葉は「恵み」と同じ語幹を持つ動詞となります。「赦す」ことは神様の「恵み」に結ばれた行為なのです。

 

赦すことに関して、マタイによる福音書18章のイエス様とペトロのやり取りの中で語られています。(マタイ18:21-35)イエス様は王様に借金を帳消しにされながらも、自分の仲間の借金を赦さなかった者の話をします。この者は自分に借金をしたものに、借金を返すように求めたのです。ここだけを見るならば、この者のしたことはすべてが間違っているとは言えないでしょう。ただ、この者は、その前に王様に自分の大きな借金を赦されていたのです。この者は、この赦しを土台に生きるのではなく、自分の小さな正しさを土台として人を裁いたのです。ここに問題があるのです。パウロは11節では【わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。】(Ⅱコリント2:11)と言います。

私たちは神様の赦しを土台とするのではなく、自分の正しさに立つことがあるのではないでしょうか。私たちが「自分は正しい」と思う時、そこにサタンの誘惑が襲い掛かってくるのです。

パウロは【そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。】(Ⅱコリント2:8)と言います。ここでは自らの正しさに固執し、裁き、悲しみに追い詰めるのではなく、愛をもって赦すことを教えるのです。

 

 

3:  力づける 共に生きる

パウロは、【むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。】(2:7)と「赦し」、そして「力づける」ようにと教えます。「力づける」という言葉は、「そばに呼ぶ」という意味を持ち、味方となり、被告を弁護するという意味も持ちます。神様は、私たちを愛し、赦し、イエス・キリストをこの世に送り、私たちの隣に来てくださったのです。まさに私たちを「力づける」者となってくださったのです。

私たちも、イエス・キリストの救いを受け取る者として、「力づける者」とされていきたいと思います。「赦し」、そして「共に生きる者となる」。これが、神様の求める愛の業なのです。

パウロ自身、もともとキリスト者を捕まえ、殺そうと迫害していた者でした。パウロの回心の時、神様はアナニアにパウロのために手を置いて祈ることを教えられました。パウロはアナニアの祈りによって新しく生きる道へと導かれたのです。アナニアは仲間を捕らえ、殺そうとしていた者を赦し、祈る者とされました。このアナニアの祈りによってパウロは変えられたのでした。

 

4:  従順であるために

9節~10節:パウロは、コリントの教会に何度も手紙を書きました。その意味として、従順であるかどうかを試すためと言うのです。別の訳では、「従順であるかどうかという、あなたがたについての確証をうるために」とされています。

イエス・キリストは神様の前にどこまでも従順でした。私たちも、どこまでも神様に従順である者とされていきたいと思います。「赦す」こと「力づける」ことは、自分が良い者となるためではないのです。自分が心広く、素晴らしい人間となるためではないのです。「赦すこと」「力づける」ことは、ただキリストの愛を受け、キリストの愛を土台として生きる中で「赦す」ものとされていくのです。つまり、キリストに従順に生きる中で「赦す者」「力づける者」と変えられていくのです。

わたしたちは、まず、神様に愛されていること、そして恵みを頂いていることを覚え、その愛と恵みに従う者として歩みだしたいと思います。(笠井元)