1: レント(受難節)
先週の水曜日2月22日からレント、受難節の時を迎えています。レントとは、受難節とあるように、イエス・キリストが十字架によって苦しまれ、死なれたことを、覚え、自らの罪を悔い改める時となります。期間は、日曜日を抜いて、イースター、復活の出来事の前の40日間となります。イースターがその年によって、日程が変わるため、レントの日程も、それに合わせて変わることになります。この期間の過ごし方は、様々ですが、イエス・キリストの十字架の苦しみを覚えるため、この期間に、断食をしたり、食事に制限をつけ、肉類は食べないようにするといった過ごし方もあるようです。
現在、このレントの時、受難節となっています。私たちの教会では、今年から、このイエス様の苦しみを覚えるために、祈りの時を持つようにしています。今日は、先ほど、深見照明兄にお祈りをしていただきました。主イエス・キリストは、私たちのために十字架への道を歩んで下さり、苦しみを受けて、ご自分の命まで献げてくださいました。私たちは、このイエス様の痛み、苦しみを覚えて、祈りつつ、レントの期間を過ごしたいと思います。
2: 罪ある者
今日は、ローマの信徒への手紙から、このレントの時期として、キリストの十字架による神様の愛について共に学んでいきたいと思います。もう一度6節から8節まで読んでみたいと思います。
【5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】(ローマ5:6-8)
今日の箇所において、「わたしたちが弱かったころ、不信心な者、罪人であった時のために、キリストは、私たちのために死んでくださった」とあります。キリストの十字架の死の前提には、私たち人間の「弱さ」「不信心」「不信仰」そして「罪」があるのです。日々の生活で様々な痛みを受けてきて、何とか教会に来たのに、教会に来てまで「あなたがたは罪人です」と言われてしまう。そんなこと聞きたくないと思われるかもしれません・・・ただこの罪を覚えることは、その罪で、断罪されるということではなく、その罪を持つ私たちをも愛してくださっている、神様の愛を覚えることなのです。
罪人。それは、10節に「敵であったとき」とあるように、神様の敵であるということを意味します。人間は、神様に敵対する存在としてあった。もう少し、柔らかく言いますと、人間は、神様を神様とすることが出来ない者。むしろ自分にとって好都合なものを神様としてしまう者。自分にとって良いものばかりを受け入れて、自分にとっては聞きたくないようなことには耳をふさいでしまうという者であるということです。つまり、それは、自分の思いを一番にしている、自分を神様としてしまう者であるということでもあります。
この人間が罪を持っているということは、もちろん嬉しいことではないのです。ただ、この罪を持っているということから、教えられることもあるのです。一つには、自分が罪人であるということ。それは、隣人と向き合うときに、自分も、隣人も同じ罪人というところに立っているということでもあるのです。
この世において、私たちは、それぞれ違う者として生まれます。父親、母親も違いますし、生まれた環境も違うでしょう。現在は、格差社会が拡がる中、生まれた環境によって、その人生が最初から決められてしまっているとも言われることもあります。また「毒親」という言葉を聞くようになりましたが、親には良い親、悪い親がいて、その親によって、人生が決められてしまうとも言います。確かに、この世において、そのような見方もあるかもしれません。実際に生まれたときの環境は、その後の人生に大きく影響を及ぼすでしょう。私自身、生まれながらに大きな病気を持っている者であり、「自分はなんでこのように生まれたのだろう」と何度も神様に訴えてきた者でもあります。
「罪」は、そのような私たちに、だれもが同じところに立っていることを教えるものとなるのです。どれほどお金を持っていても、どれほど良い人、正しい人、恵まれた人だとしても、人間は、神様の前にあっては同じところ「罪人」「神様を神様としない」というところに立たされているのです。それこそ、すべての人間が、そのままであるとき、神様を受け入れようとしない。そして、それは、神様だけではなく、人間同士、それぞれが、それぞれをも受け入れようとはしないということでもあるのです。つまり、人間は、そのままであるとき、それぞれの関係が断絶されている。もちろん、私たちには、仲のいい人、信頼できる人、良い関係にある人、助けてくれる人といった、そのような関係を持つこともできるかもしれません。しかし、それでもこの神様との関係が繋がれていない時、本当のところで、その深い人間同士の関係の中で、私たちは、どこか孤独に立たされているのです。
3: 罪ある者のために死なれたキリスト
罪ある人間。それは人間は「孤独」であるということでもあるのです。先日、一人の人と話す時があったのですが、その人は、以前の職場でとにかく長い時間働かされたということでした。そのような過重労働が続く中、「よくわからないけれど、死んでしまいたいと思うようになった」と言われていました。その人は「自分はできるだけのことをしている。自分にとってできる限りの体力と気力を振り絞って、働いている。ただ、自分が何をしているのかわからない。そしていくらでも自分の代わりはいるのだとも感じる。生きている意味がわからない」と思うようになっていったということでした。その人が感じていたのは、生きている意味もわからないのと同時に、それを考える時間もなければ、一緒に考える人もいない。誰も自分の存在を必要としていないということを感じていたということでした。この人は、過重労働によって、「ひとり」とされていた、それこそ「孤独」になってしまっていたのです。実際、過重労働によって、自死を選ぶ方がおられますし、このことはニュースでも取り上げられることもあります。
このことに対して、先日、ある本を読んでいた中では、一人の人がクリスチャンになるまでの道、証しが記されている本を読んでいたのですが、そこでは、このことと全く逆のことが書かれていました。そこでは、今度は、自分は欲しい者はなんでも持っている。何もかも手に入れている。ただ、だからこそ、自分は生きている意味がわからない、生きる喜びを感じることができなかった。そしてそこから、イエス・キリストに出会っていったということが記されていました。先ほどの人とは、まったく逆。時間をもてあまし、何でも手に入る。ただ、それでも、この人も「孤独」であったのです。 そして、この人も、死に飲み込まれそうになっていたのです。
「孤独」は人間の命を奪うほどの思いとなります。それこそ、マザー・テレサは、「愛の反対は孤独」と言っています。人間は、他者との正しい関係を持っていない時、不安に襲われ、生きることに苦しみを持つ。そして、それは、すべての人間が、同じように、そのようなところに立たされている。それは、神様が、私たちを愛してくださっているということを受け入れることができていない、ということ、つまり、神様から離れてしまっているということ、つまり、罪にあるということです。
今日の箇所では、そのような罪の中にある私たち人間のために、イエス・キリストが死んでくださり、このことによって、神様の愛が示されたと教えるのです。私たち人間は弱い者です。ここでは不信心な者とも言われています。不信心。つまり、神様を信じない者。神様を受け入れない者なのです。しかし、神様は、そのような者、神様に敵対し、その関係を拒み、神様を受け入れない者を愛されたのです。それは、私たちが何かをしたからでも、何かを持っていたからでもありません。ただ神様が、私たちを愛された。何の条件もありません。ただただ、一方的に、私たち人間のことを、神様が愛してくださった。そして、その愛を、イエス・キリストの十字架の死という出来事で示されたのです。
キリスト教の救い。それはこのイエス・キリストの十字架の出来事によるのです。神様が罪ある人間のために死なれた。本来人間が、その罪のために、苦しみ、死に堕とされるはずのところを、神様ご自身が死なれた。私たちの苦しみのために苦しみ、私たちの死のために死んでくださった。本来、神様の敵とされる存在の人間と、一方的な赦しをもって和解をしてくださったのです。そして、それは、本来、神様と愛の関係に生きておられたイエス・キリストが、その関係から切り落とされ、孤独の中に堕ちてこられたということ。私たち人間が、孤独から解放されるために、その隣に、イエス・キリストがきてくださった。人間が、どこにいても、どこにあっても、決して一人ではない者となるため、イエス・キリストが孤独の中にきてくださったのです。これが、神様が、私たちに与えてくださった愛の出来事なのです。
4: 十字架の愛に留まり続ける
今日の箇所は、今年度の私たちの教会の主題聖句の後の言葉ともなっています。私たちの今年の主題聖句は、3節からの言葉です。一度、読みたいと思います。【5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。】(ローマ5:3-5)
そして、このみ言葉から、昨年度から続いているのですが、標語として「共に、神の恵みの下に留まる」という標語を掲げてきました。「神様の恵みに留まる」。私たちは神様の愛という恵みに留まりつづけていきたい。イエス・キリストの十字架による神様の愛に繋がっていたいと思うのです。それこそ、私たちの人生には、様々な苦難が襲い掛かります。
しかし、ローマの8章では、このように教えます。
【8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・・ 8:36 「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。】(ローマ8:35-39)
何ものも、主イエス・キリストの十字架によって示された神様の愛から、私たちを引き離すことはできない。どれほどの苦難があろうとも・・・私たちはその出来事によって、神様から離されることはない。それこそ、イエス・キリストの十字架を見上げていれば・・・です。ただ、もし、神様から引き離されるとするならば、それは、外からの苦難や困難ではなく、私たちの心のうちに生まれる思いによるのです。 それは、イエス・キリストの十字架を必要としないこと、神様の恵みを必要としないようになること、そこから離れてむしろ自分の力で自分を愛し、自分の生き方を自分で選び取って、自分は一人で生きていけると思うこと。その思いに陥る時に、私たちは、希望を見失ってしまうのでしょう。だからこそ、私たちは、「共に、神の恵みの下に留まる」・・・良いこと、悪いこと、様々な出来事が起こる中、ただ、神様の恵みに留まり続けること、イエス・キリストの十字架による愛から離れることなく、神様に目を向け続けること。神様が一緒にいてくださる。私たちと和解をしてくださり、私たちを愛してくださっているということに留まり続けていきたいと思うのです。
今年は、この「神の恵みの下に留まる」という標語に「共に・・・」と加えた標語としたのです。 私たちは、キリストによって孤独から解放されたのです。私たちは一人ではない。キリストによって、神様の愛の中に入れられたのです。そしてだからこそ、私たちは、弱い者、罪ある者である者同士でありますが、ただキリストの愛によって、つなげられていきたい。それこそ、「共に」生きていきたいと願うのです。
私たちは神様の無償の愛、一方的な愛に包まれているのです。そしてだからこそ、私たちもお互いを受け入れる者、愛し合う者とされていきたいと思います。聖書は、「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった」と教えます。このレントの時、まずこのイエス・キリストの十字架に心を向け、悔い改め、神様の、大きな愛に目を向けていきたいと思います。(笠井元)