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2023.3.5 「十字架:命を懸けた癒しの御業」(全文)  ルカによる福音書6:17-19

1:  山から下りて来られた

 イエス様は、まずここで、病気を癒され、このあと20節から教えられたのです。ここで、イエス様はこの癒しと教えを、山上からではなく、山から下りてこられ、平らなところに立たれ、なされたのです。17節では【大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から】(17)来られたとあります。ここから読み取るならば、相当の人数が集まっていたことがわかるのです。それほど多くの人々が集まる中で、イエス様は山や丘といった高いところではなく、平らなところにお立ちになられ、癒し、教えを語られたのです。イエス様の時代であれば、このようにマイクもスピーカーもありませんので、声が通るためにも、高いところから話すものだと思うのです。それに対して、ここでイエス様はわざわざ、高いところから下りてこられたのです。それは、ただ地理的な問題だけではなく、イエス様は、その立場、立ち位置として、そのような高いところに留まるのではなく、まず、私たちと同じところまで下りてきてくださったということを意味しています。イエス様は神の子として高いところから、人間に教えを語るのではなく、まず、下りてこられ、私たち人間と同じところに立たれた。私たちと同じ目線、同じ状態のところに来てくださり、そして、そこから語り始められたのです。これがイエス様の癒しであり、教えとなるのです。

 

2:  癒し、教えられた

 イエス様はこのあと20節から多くの教えを語り始められます。しかし、その前に、まず今日の箇所では癒しがなされたのでした。イエス様はまず、「癒し」、そして「教えられた」のです。この順番は、大きな意味があるでしょう。イエス様は「教え」てから「癒し」を与えられたのではなく、まず「癒された」。そして「教え」られたのです。つまり、まず「癒し」という「救いの恵み」を与えられ、そこに「教え」「生きる道を示された」ということになります。 

 

松見先生は7月から出エジプト記から十戒について説教をしてくださっています。先月12日は「あなたの父母を敬え」というところから語ってくださいました。来週は、「主のみなをみだりに唱えてはならない」というところから語って下さる予定です。その中でも、7月24日の説教において、十戒の序文についてこのように教えられました。十戒の前文は、その神が、「エジプトの地、奴隷の家からあなたがたを導き出した」お方であると言います。私たちクリスチャンにとっては十字架において神と私たちの間に横たわる裂け目に橋を架け、私たちを救い出して下さったイエス様の解放の業でしょう。「わたしはイエス・キリスト、あなたの神、あなたを罪の奴隷から十字架によって贖い出した神である」ということになるでしょう。このイエス様が十戒を守るように命じられるのです。その時に私たちは、十戒を守ろうとする根拠と動機付けを持つことができます。神はこうして、命じ、戒める神である前に、愛し、救ってくださる神、解放して下さる神なのです。これが私たちの信仰の出発点です。】(2022724日松見俊説教「解放者なる神への応答(十戒序文)」より)

神様は、まず私たちを愛し、救い、解放してくださった。このことを根拠に、私たちは、神の教えを聞くのです。「癒し」があり「教え」がある。「救い」があり、救われた者が生きる道としての「教え」があるのです。

 

3:  癒しとは

ここでイエス様は、癒しを与えられました。癒しとは何でしょうか。ここでは「病気を癒していただくため」、そして「汚れた霊に悩まされていた人々も癒して頂いた」とす。この「癒し」ということを考えるために、パウロの一つの言葉を見ていきたいと思うのです。

第二コリント12:7-9

【それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。】(Ⅱコリント12:7-9

ここでは、パウロは「一つのとげ」が与えられたとし、その「とげ」が離れ去るように三度も主に願ったとあるのです。この「一つのとげ」というものがどのようなものかは、具体的には記されていませんが、どのようなものかと言えば、パウロが思い上がらないため、パウロを痛めつけるため、サタンから送られたものであるということでした。パウロは、この「とげ」が離れさるように三度も祈り願ったのです。しかし、そこで与えられたのは、その「とげ」による弱さの中でこそ、神様の恵みが十分に表されるということでした。

確かに病気から癒されることは嬉しいことです。そのことを求めることが悪いことでもないでしょう。それこそ、昨年の年末には、うちの子が入院することになりましたし、一度はお医者さんからは、もう生きていくことはできないというようなことを言われたので、本当に苦しく、何度もお祈りしました。ただ、どんなに祈っても治らない病気もあります。私も持病をもっていますので、その癒しを求め、何度も祈りました。何度も検査もしましたし、そのたびに癒される方法が見つかることを願いました。ただ、今のところ、分かっているのは、今の医療では治すことも、薬をどれほど飲んでも、完全に発作を抑えることはできないということです。これは私の信仰が足りないからでしょうか。実際、高校生くらいの時は、そのように思ったこともありました。大学に行ってからは、自分は神様の失敗作なのかな、と思ったこともありましたし、私は、もともと神様から捨てられた者なんだとも思ったこともありました。

皆さんは、持病などではなくても、今の自分に欠点があると思われるでしょうか。それこそ病気を持っていなくても、一つや二つは、自分にとって欠点と思うところ、短所があるのではないでしょうか。人間は誰もが、自分では受け入れたくない、または、「こうだったらよかったのに」と思うようなところがあるのではないでしょうか。

 

4:  イエス・キリストの癒し

イエス様の癒し、その癒しの時、イエス様から力が出ていったのです。これは、人間としてのイエス様、私たちと同じように弱く、限界を持つ人間としてのイエス様から力が出ていったということ。イエス様はその自らの命を懸けて、人々を癒されたのです。そして、その最大の出来事が、十字架なのです。

イエス・キリストは、神の子でありながらも、人間としてこの世に来られ、私たちと同じところまで下りてきてくださり、私たちと共に生きる者となられたのです。そして、その自らの命を懸けて、私たち人間と共に生きる者となってくださったのです。これがイエス・キリストの命を懸けた癒しの出来事、私たち人間に与えられた救いの出来事なのです。イエス・キリストはその命を懸けてまで、人間を愛された。そして、私たちの弱さや欠点を含て、その存在を愛された。「わたしはあなたを愛している」「もしあなた自身が受け入れたくないとしても、そこに神様の愛が現わされるのだ。わたしはあなたの、その欠点も、その弱さをも愛している」と語って下さっているのです。

これは「こころの友」の3月号に書いてあったことですが・・・「生まれてきた時点で、あなたは神に全肯定されている存在です。・・・己の醜さに気づき、イメージどおりに行動できない自分の存在を肯定できない生徒がいる。『あなたは大丈夫。神様と出会って本当の自分を見つけなさい』」(こころの友20233月、安藤理恵子「聖書を持って生徒たちの前に」から)とありました。

神様は、私たちの弱さを含めて、私たちを愛してくださっている。弱さを持つまま、不完全な私たちを受け入れて、愛しく思っていてくださっている。これこそ、イエス様の癒し。本当の命となる癒しなのではないでしょうか。

 

5:  癒された者として生きる

神様は、このイエス・キリストの命を懸けて、私たちに愛を示されました。命の救いを与えてくださったのです。私たちは、癒しを与えられた者としてどのように生きていくことができるでしょうか。「あなたも、神様に愛されています」「あなたの存在は素晴らしい」という、神様の福音、イエス・キリストの十字架による恵みを共に分かち合っていきたいと思うのです。私たちは、神様に愛された者として、共にお互いの弱さを受け入れ生きていきましょう。お互いを裁き合うのではなく、お互いのその欠点を受け入れ合う者とされていきたいと思います。(笠井元)