1: 山から下りて来られた
イエス様は「山から下りて、平らなところにお立ちになった」(17)のです。
多くの人々が集まる中で、イエス様は山や丘といった高いところではなく、平らなところにお立ちになられ、癒し、教えを語られたのです。多くの人々に語る時に、私たち人間の考えでいえば、高いところから語った方が、顔も見えますし、声も聞こえやすいと思うのではないでしょうか。それに対して、イエス様は高いところから下りてこられたのです。それは地理的な問題だけではなく、イエス様は神の子として高いところに留まるのではなく、私たちと同じところまで下りてきてくださったのです。
2: 癒し、教えられた
イエス様は教えてから癒しを与えられたのではなく、まず癒され、そして教えられたのです。つまり、まず「癒し」という「救いの恵み」を与えられ、そこに「生きる道を示された」のです。神様は、まず私たちを愛し、救い、解放してくださった。このことを根拠に、私たちは、神の教えを聞くのです。癒しがあり教えがある。救いがあり、救われた者としての生きる道としての教えがあるのです。
3: 癒しとは
イエス様は、癒しを与えられました。癒しとは何でしょうか。Ⅱコリント12:7-10では、パウロは「一つのとげ」が与えられ、その「とげ」が離れ去るように三度も主に願ったとあるのです。しかし、そこに与えられたのは、神様の「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)という言葉でした。
確かに病気から癒されることは嬉しいことです。ただ、どんなに祈っても治らない病気もあります。病気ではなくても自分にとって欠点と思うところがあるのではないでしょうか。私たちは欠点が無くなった時に何を求めるのでしょうか。
4: イエス・キリストの癒し
イエス様の癒しの時、イエス様から力が出ていったのです。イエス様は自らの命を懸けて、人々を癒されたのです。その最大の出来事が十字架です。イエス・キリストはその命を懸けてまで、人間を愛された。私たちの弱さや欠点を含めて、その存在を愛された。どれほどの弱さがあろうとも、そこに主イエス・キリストがきてくださった。神様は、その弱さを愛してくださっている、その弱さを持つままの私たちを受け入れてくださっているのです。
5: 癒された者として生きる
神様はイエス・キリストの命を懸けて、私たちに愛を示されました。私たちに癒しを与えてくださった、命の救いを与えてくださったのです。私たちは、癒しを与えられた者としてどのように生きていくことができるでしょうか。私たちは、神様に愛された者として、共にお互いの弱さを受け入れ生きていきましょう。(笠井元)