1: 何をもって神様に感謝するのか
神様に感謝することを学びましょう。パウロは決して神様に感謝するような状況にはなかったのです。コリントの教会ではキリストの使徒として認められない者とされていました。その中でパウロは【神に感謝します】(2:14)と言います。
この箇所に関連して、ボンヘッファーは「神に感謝すべきかな-あらゆる事柄に。苦しみの時にも。楽しくない時にも。どんな失望の時にも。どんな危機の時にも。兄弟にも。労働の時にも。言葉を発するときにも-この感謝なくしてキリスト者というものには前進はありえない」(『説教黙想アレテイア、コリントの信徒への手紙二』p.52)と語ったのです。
わたしたちは、何を根拠に感謝するのでしょうか。【神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ】(2:14)てくださるからです。
わたしたちは、自分の何かをもって神様に感謝するのではないのです。そのような感謝は一時的なもので、良い時もあれば、悪い時もある。そしていずれ失われていくでしょう。
ルカによる福音書18章9節~14節においてイエス様はたとえ話をされました。
わたしたちは自分の向き合う現実に一喜一憂しています。しかし神様は、キリストの十字架によって、永遠に変わることのない愛を示されました。この勝利は変わることはないのです。この愛に感謝したいと思います。これは「神様に栄光を帰す」という言葉にもつながります。
2: キリストの香りを漂わせる
14節~16節において、「香り」について語られます。香りは、人間の目に見えませんし、いつの間にか広がっていきます。香りから逃げることはとても難しいものです。
私たちはキリストを知り、キリストによって、神様の愛を表す者、神様の恵みの香りを漂わせる者とされています。
私たちがキリストの福音を受ける時、そこに神様が見えなくても、そこに神様の愛は自由自在に、どこまでも広がっていくのです。それをだれも止めることができないし、そこから逃げることもできないのです。私たちは、この世にあって、キリストの愛の香りを漂わせる者とされていきたいと思います。
3: 神の言葉を売り物にする
当時コリントにはパウロは使徒ではないという人がいました。パウロは、そのような人々を「神の言葉を売り物にしている人々」と言いました。
「売り物」は、客が喜び、必要として、買うためにあります。つまり、神様の言葉を、相手を見て、相手が必要としている言葉に変えてしまうことを(柔軟性は必要だと思いますが…)「神の言葉を売り物にしている」としているのです。私たちも、「神の言葉を売り物にしていないか」自分に問う必要があるでしょう。
パウロは、自分は【誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語ってい】(17)るとします。パウロは自分は、滅びる者に対しても、救われる者に対しても、変わることなく、キリストの香りを漂わせる、福音の言葉を語っていると語ったのでした。
「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」「このような務めにだれがふさわしいのか」。自分の能力をもって、神の務めにふさわしい者となれる者はいないでしょう。むしろ自分の弱さ、ふさわしくないということを知る者、ただキリストの愛を必要とする者こそが、福音を語る者なのだということを教えているのです。
4: 神が働いてくださる
最後に、もう一度14節に戻りたいと思います。ここで、「神は・・・」とありますように、神様の福音を語ること、神様の使徒として働くこと、神様の愛の香りを漂わせることは、ただ神様に働いていただくことにあると教えます。私たちは、自分が、自分で、キリストの香りを漂わせようとしていないでしょうか。そして良い結果を得れば、自分の力によるものだと傲慢になってしまうし、逆に悪い結果となると自分の責任だと思い、自分を責めてしまうのです。
ただ神様から召された者として、神様の働きを求めていきましょう。その結果がどうであれ、そこに神様が働いてくださることを信じ、委ねて、自分にできることを精一杯行っていきたいと思います。(笠井元)