今日3月12日は、レント、受難節の第三主日です。主イエスの苦難を覚えて過ごしています。レントは、四旬節とも呼ばれ、イースターの前の六つの主日を除いた四十日の期間です。今でもこの伝統を守っている教会もあります。イースターにバプテスマを受ける志願者が断食し、祈って準備する期間です。受難節を数えるにあたり主の日、日曜日を除いているのは重要なことです。受難節といえども、日曜日は復活の日であり、いかなる時も神による愛といのちの勝利を忘れてはいけないからであす。私たちはあくまでも死者の中から引き上げられたお方の苦難を覚えるのです。
また、昨日3月11日は東日本大震災を覚える日でした。津波と原発事故がありました。その前の日、3月10日は、東京生まれの私は東京大空襲で数多くの民間人が命を奪われた日として心に刻んでいます。死者はその日だけで10万人以上でした。福岡大空襲は6月20日でしたね。地震の恐ろしさ、原子力発電の危険性、戦争の悲惨さを語り継ぐ必要があると思います。レントに加え、そのようなことを心に覚えながら、今朝は十戒の第三戒に耳を傾けます。「神から愛され、奴隷状態から解放されているあなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。唱えるはずがない。」
1.「みだりに唱えるということ」
まず、「みだりに唱えること」いや「唱えないこと」について考えてみましょう。ここで用いられている動詞「ナーサー」は「取り上げること」「上に上げること」「担い、運ぶ」ことを意味しています。これはまず、神の名で「誓うこと」の禁止、「あなたは、あなたの神、主(ヤㇵウェ)のみ名によって偽って誓ってはならない。」を意味することができます。結婚式で死ぬまでの愛を誓うことはどうなのでしょうか。昨年、ある裁判で原告本人尋問を受けましたが、尋問の最初に「故意に嘘をつかないこと」を誓わされ、偽証すると罪になると宣言されました。日本社会でも「神命に誓って嘘は言いません」といます。政治屋が良く使う言葉です。「主の名によって誓え」という戒めもあるので、ここでは誓うことが禁じられているのではなく、「みだりに」(ラッサーヴァ)、つまり、偽って、不正に神の名を用いることが禁じられていると解釈できますが、第三戒をそのような狭い意味で理解することはできません。
「ナーサー」は、もう一つ別の意味を現わす可能性があります。「発音すること」です。イスラエルのより後代の歴史においては、この戒めは「主」という神の名を発音することの禁止へと導いて行きました。詩編42-83編そしてヨブ記の会話の中に、主=ヤㇵウェのみ名は一切用いられておらず、「天」あるいは「我が主」(アドナイ)あるいは「神」(エローヒム)が用いられています。ですから日本人の私たちも「ヤㇵウェ」という聖なる四文字が登場すると「主」(アドナイ)と発音しています。この神の名が最初に登場するのは創世記2:4bです。しかしこのような発音の禁止はたぶんやはり第三戒の趣旨ではないでしょう。
また、神の名を悪用することを意味している可能性があります。古代社会では、人々は神の名を呼んで、魔術や呪術を行っていました。神の名が社会的、政治的、軍事的意味をもって呼び出され、勝利と祝福が強要されたのでした。神の名を「みだりに」、不用意に用いることもありますね。私の次男は「麻雀」で牌をつもる時、「神様!」というので、「おい、勝負事で神の名を呼ぶな!こっちも神の名を読んだら神が困るだろう」などと言っていました。英語の「神様、オーマイゴッド」「Christ クライスト」(どんでもない!)にも呪術的なごりがあるのでしょうか?「Jesusジーザス」(ちくしょう!)も問題でしょうが、そんなことを十戒が真面目に禁じているわけではないでしょう。
ここで取り上げたいのは主の名の「誤用・乱用」の問題です。むろん、自己中心的欲望の実現や人を傷つける活動を正当化するため、あるいは、責任逃れのために、神の名を悪用することと、この誤用・乱用(misuse, abuse)とはどこか繋がっている処もあるでしょう。しかし、ここで、「ナーサー」そして「みだりに」(ラッサーヴァ)が「エジプトの奴隷状態からイスラエルの民を解放して下さった「ヤㇵウェ」の名の誤用・乱用を禁じていることが重要です。その問題に触れる前に「名」とはそもそも何か、その働きについて考えてみましょう。
2.「名」の重要性:「名」によって本質が現在すること
「名」というものは力を持っています。その担い手はその名においてここに現われ、われわれの心の中でそれらへの応答を促します。アドルフ・ヒットラー、ヨーゼフ・スターリン、ウラジミール・プーチン。決して悪い文脈ではないと思いますが、現在ではゼレンスキーの名を毎日聞いています。一年少し前でしたが、私は認知症の検査を受けました。先生は「一問だけ問題を出す。それに応えられたらあとの問題は必要ない。ウクライナの大統領は?」と聞くのです。え?そう来たか! 私は、「、ゼ、ゼ、えーと、ゼ。すいません。手帳を見ていいですか?」というと、「そういうのをカンニングといいます!」と来ました。むっとした瞬間、「ゼレンスキー」という名が出てきました。はい 「オーケー。お帰り下さい」でした。医者は一体何を言いたかったのか今でもよく分かりません。また、マザー・テレサ、アシッジのフランシス、バプテストでは、ロティ・ムーンと言えば、世界祈祷週間と関連づけられてある敬意と祈りを持って思い出されるでしょう。はたまた、イングリット・バークマン、ソフィア・ローレン。私は数年の欧州での留学中に「ヒロヒト」は元気か?と聞かれ、一瞬何を聞かれているか分かりませんでした。しかし、天皇の「名」による部下へのビンタや戦争が遂行されとことを考えると、日本人以上に天皇「ヒロヒト」の名に彼ら・彼女らは敏感なのでしょう。確かに「名」は私たちの中に、ある愛着や怒り、嘆き、賞賛あるいは軽蔑の感情を起こさせます。こうして、「名」は言葉以上のものであり、その名の背後にはその名に、内容と意味を与えてきた「人格」あるいは出来事があり、逆に、そのある人格あるいは出来事はその名を呼ばれる時に、いまここで、現在のものになるのでしょう。
3.主イエスのみ名
第三戒は「わたしは主(ヤㇵウェ)、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という神の自己紹介、神の語りかけの文脈の中に位置づけられています。主の名はすでに語られているのです。キリスト者の場合は、神の名は、神のみ名であるイエス様の名に結びつけられています。
では、イエスというみ名で皆さんはどのような思い、感情、決意を揺り動かされるでしょうか?日本基督教団讃美歌には、ドイツ語からの翻訳で‘(新生讃美歌18番)、166「イェスきみは、いと麗し」という讃美歌があります。また、新生讃美歌523「主われを愛する」がありますが、原詩はJesus loves me, Yes, I know です。現在、バプテスマ式は「父とみ子イエスと聖霊の名」によって授けられますが、最初は、「イエスの名」によって授けられていたようです。また、マタイ18:20では「二人または三人が私、すなわち、イエスの名によって集まるところには、わたし、すなわち、イエス様もその中にいるのである」と言われています。ヨハネ16:23では「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と約束されています。私たちは、「イエスの名においてあなたの諸々の罪は赦される」という言葉に慰めと希望を見出すのです。われわれは確かに、「イエス・キリストの名」が天地万物の創造主との和解のためにあるという福音の約束に信頼します。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)と告白しています。「イエス・キリスト」の名はまた、自由、平等、正義、平和、そして共感共苦する神のためにあります。主イエスのみ名を褒めたたえましょう。しかし、勧めと結論に至る前に少し注意しなければなりません。
4.名の誤用の可能性
神が解放の救い主ヤㇵウェと、愛と慈しみと正義のお方イエス様としてみ名を明らかにされ、この人間の世の中に関わられたことは、実は「冒険」だったのです。この名は誤って、乱用される危険があるからです。
今朝は代表的な二つの例に触れましょう。一つは皆さん、一人一人の名についてです。人にとって「名誉」、プライドは大切です。神学校のある教員が女性連合の『世の光』に「悪魔が存在しない」と書いたので、誤解が生じないように、松見がそれに対するコメントを書いてくださいと依頼されました。私は、「私が書くよりは本人が書いた方が良いですよ」と答えました。読者たちはその弁明を受け入れたかどうかは分かりませんが、「名」「名誉」は重要であり、誤解された場合は弁明が大切です。しかし、私たちは神のみ名、イエスのみ名が大切であると言いながら、自分自身の名のために行動し、あるいは、自分自身の評判を気にしているのではないでしょうか?!神の名を利用し、自己正当化をしてはいないかと反省すべきでしょう。
第二は社会的なことです。ロシア軍のウクライナ侵略戦争において、ウクライナ正教とロシア正教とが同じ神の名で、いや、イエス・キリストを信じると言いながら戦争をしていることです。ロシア正教のモスクワ総主教のキリルI世はプーチン大統領を神に立てられた者と呼んでいるそうです。そして、戦争で死亡したロシア兵は全ての罪を清められると発言したと伝えられています。これに対してウクライナ正教会側の総主教がどのような発言をしているのかは詳細には分かりません。また、西ヨーロッパの同盟軍、そして、その背後の英米の武器支援もどこかキリストの名によってなされていないでしょうか?世界の歴史を考えるとイスラム教、ユダヤ教、そして、キリスト教徒たちが神の名による戦争をしてきたのではないでしょうか?神の名はいつも誤用され、乱用される危険に満ちています。
5.み名を聖別する祈りと生き方へ
では、私たちは何をしたら良いのでしょうか?私たちは私たちの神の名が「崇められますように」と祈りますが、実際は自分自身の評判に関心を持っているのではないでしょうか。今朝も祈った「主の祈り」にあるように、「ねがわくはあなたのみ名をあがめさせたまえ」と祈りましょう。私は主ではありません。
また、神の名が戦争のため両軍から呼ばれ、人を傷つけ合う時、私たちは「あなたの『平和』のみ国を来らせたまえ」と祈りましょう。スイスの神学者カール・バルトはドイツのボン大学で「ハイル・ヒトラー」の挨拶を拒んで国外追放となりました。主なる神の名とヒトラーの名を並べることはできなかったのです。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない。」という警告は、私たちが先走って裁くことがないように、究極的に主なる神が私たちの審判者であることを知らせています。そして、主なる神はご自身でご自身の名を守るために必ずや行動して下さることを約束しています。私たちは「主の祈り」を祈りながら、どんなときにも、どこででも、「国家」権力が神の名でみだりに叫ばれることに目を覚まして注意しましょう。そのような誤った力にあらがい、慈しみと正義と平和を生き抜かれ、十字架につかられたイエス様こそ「主である」と告白し、その証のためにささやかな行動をしましょう。よみがえられた主イエスには十字架の傷跡が刻印されていました。十字架で殺されたお方は死者の中から引き上げられたお方です。主イエスのみ名を讃美しましょう。それゆえ、私たちは、傷つけられ、弱っている人たちの傍らにいて、同伴者であり、慰め主である主イエス様を証することができるのです。
祈り
聖書の最後の言葉は「然り、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ、来てください」で終わっています。また、「マラナ・タ」(主よ、来てください)と(Iコリント16:22)イエス様の弟子たちは祈り、愛を実践しました。愛と正義のためにできることをすることができますように。この世の神々の名が叫ばれる時に、私たちは愛と命の神の名を唱えることができますように、父と子と聖霊の名によって祈ります。(松見俊)