3月12日は、受難節の第三主日です。主イエスの苦難を覚えて過ごしています。むろん、いかなる時も神による愛といのちの勝利を忘れてはならず、あくまでも死者の中から引き上げられたお方の苦難を覚えるのです。今朝は十戒の第三戒に耳を傾けます。「神から愛され、奴隷状態から解放されているあなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。唱えるはずがない。」
1.「みだりに唱えるということ」
「みだりに唱えること」いや「唱えないこと」は「誓い」について、「主の名を発音すること」、「魔術・呪術で神を呼ぶこと」などを考えることもできますが、この戒めでは、主の名の「誤用・乱用」の問題が主です。
2.「名」の重要性:「名」によって本質が現在すること
「名」というものは力を持っています。「名」は私たちの中に嘆きや怒りあるいは喜び、賞賛を誘発します。「名」は言葉以上のものであり、その名の背後にはその名に、内容と意味を与えてきた「人格」あるいは出来事があり、逆に、そのある人格あるいは出来事はその名を呼ばれる時に、いまここで、現在のものになります。
3.主イエスのみ名
第三戒は「わたしは主(ヤㇵウェ)、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という神の自己紹介、神の語りかけの文脈の中に位置づけられています。主の名はすでに語られているのです。キリスト者の場合は、神の名は、神のみ名であるイエス様の名に結びつけられています。イエスのみ名はなんと麗しいことでしょう!
4.名の誤用の可能性
私たちは神の名、神の評判よりも自分自身の名や名誉に気をとられていないでしょうか?また、自分の欲望の充足を神の名で正当化していないでしょうか。
社会的なことで言えば、人々は神の名で互いに自らを正当化して戦争をしてこなかったでしょうか。神の名はいつも誤用され、乱用される危険に満ちています。
5.み名を聖別する祈りと生き方へ
では、私たちは何をしたら良いのでしょうか?今朝も祈った「主の祈り」にあるように、「ねがわくはあなたのみ名をあがめさせたまえ」と祈りましょう。私は主ではありません。また、神の名で殺し合いが起こる時、「あなたの『平和』のみ国を来らせたまえ」と祈りましょう。「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない。」という警告は、私たちが先走って裁くことがないように、そして、主なる神はご自身でご自身の名を守るために必ずや行動して下さることを約束しています。私たちは「主の祈り」を祈りながら、「国家」権力が神の名でみだりに叫ばれるとき、誤った力にあらがい、慈しみと正義と平和を生き抜かれ、十字架につかられたイエス様こそ「主である」と告白し、その証のためにささやかな行動をしましょう。主イエスのみ名を讃美しながら、傷つけられ、弱っている人たちの傍らにおられ、同伴者である主イエス様を証することができるのです。(松見俊)