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2023.3.19 「あなたの幸せはどこにあるのか」(全文)  ルカによる福音書6:20-26

1:  何が幸いなのか

皆さんは今、幸せでしょうか。少し考えてみてください。「自分は幸せだな~」と思われた方はおられたでしょうか。その方は、何をもって自分は幸せだと思ったのでしょうか。また、逆に「自分は幸せではないな~」と思われた方は、おられたでしょうか。その方は、何をもって自分は今、幸せではないと感じられたのでしょうか。今日の聖書は、この「幸せ」とはどこにあるのか、何をもって本当の幸せというのかということを教えています。今日、私たちは、ここから、「本当の幸せ」ということを共に考え、そして、神様の御言葉が与えてくださっている「本当の幸せ」を頂いていきたいと思います。

 今日の箇所は、マタイによる福音書では「山上の説教」、今日のルカによる福音書では「平野の説教」として、聖書の中でも、とても有名な箇所となります。マタイによる福音書の5章でも、この箇所と同じように「幸せ」について記されているところがありますが、そこでは、9つの「幸い」、「祝福」が述べられているのですが、このルカによる福音書にあるような「不幸」や「災い」については語られていないのです。ルカによる福音書では「幸せ」と「不幸」、そして「祝福」と「災い」がセットとなって4つ並べられて語られています。ルカのこの形は、「幸せ」とは何かということをわかりやすくするために、このように記されたとされています。

 この「幸せ」と「不幸」が並んで記されるという形式は、聖書では、他にも数多く記されており、特に、旧約聖書の中の格言の形式によく似ているものとなります。そこでは、基本的には「どのようにしたら幸せになれるか、またはどのようにすると不幸になるのか」ということが語られているのです。しかし、今日のこの箇所、ルカによる福音書では、人生のあり方を観察した、格言、幸せになるためにはどのようにしたらよいのか、また惨めな状態、災いが襲い掛からないためには、どのようにしたらよいのかということを語っているのではないのです。今日の箇所では、私たちにとって何が幸せなのか、何をもって幸せとするのかということを教えているのです。

 

2: 貧しい人々に語られた言葉

 今日の箇所20節において、まず【イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた】(ルカ6:20)とあります。イエス様は弟子たちに向けてこの言葉を語られたのでした。この時、イエス様に従っていた弟子たちの多くは、実際に貧しく、社会的にも弱い存在、または嫌われ者、罪人と言われている人が多かったとされます。イエス様の弟子たちは、その多くが、社会からつまはじきにされ、ただ物質的に貧しくて困っているということだけではなく、孤独感、精神的な苦しみも味わっている人であった。そのような者たちに対して、イエス様は、語り始められたのです。また、今日の箇所の、マタイによる福音書の並行箇所では「心の貧しい人々」「義に飢え渇く人々」とされており、それに対して、ルカによる福音書では「心」「義」という言葉がなくなり、「貧しい人々」「飢えている人々」とされているのです。この違いを見ても、今日の箇所は、ただ、心の中が貧しく、心のうちにおいて義を求めている人々に対して向けられただけではなく、実際に、今、貧しさに苦しみ、実際に飢えている人々。今、このとき、命の危険性を感じるほどに苦しい状況にある。そのような状態にある人々に向けられて語られた言葉として見ることができるのです。

イエス様はこのように言われました。【「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」】(ルカ6:20-23

 イエス様は、貧しさの中にある者、飢えている人、泣いている人、憎まれている人に対して「あなたは幸いである」と言われました。この言葉を聞いた者たち、ここでは、イエス様の弟子たちとなりますが、その中で、どれだけの人が、「その通りだ」と納得し、受け留入れることができたのでしょうか。先ほど、この言葉を聞いていた人々は、今、実際に、貧しさに苦しみ、飢えている人だと言いました。そのような人々は、自分から求めて貧しくなったわけではないと思うのです。どちらかと言えば、本当のところは富んだ者となりたかった。しかし、ただ、様々なことから、貧しくなっていった。そのように思っている者がほとんどだったのではないでようか。そして人々は、この世の富、飢えないための方法、この世で満たされることを求めていた。イエス様の言葉を聞いていた、このときも、貧しさの中からどのようにして、この自分のこの不幸な状態から抜け出すのかを考えていたのではないでしょうか。もしかすると、その貧しさから抜け出すためのヒントをイエス様の言葉から求めていた人もいたかもしれません。そのような意味で、「貧しい人々は、幸いである」と言われたときに、その言葉をそのまま受け入れ、自分の幸せを語って下さっている言葉として、「自分は貧しいから幸せだ」と思えた人はどれほどいたのでしょうか。

 

3: この世の幸せとは

 皆さんは、この言葉「貧しい者は幸いである」という言葉を聞いてどのように思われるでしょうか。この世での「幸せ」というのは、立場や状況、そして時代や環境によっても違うものとなります。一番最初にも聞きましたが、今、皆さんは何をもって幸せと感じているでしょうか。あくまでも一般的にですが・・・、いい学校を出て、いい会社に就職をして、財産を得て、健康であること、長生きすること・・・時には、太く短くという方をおられますが・・・そのようなことなどが、「幸せ」だと考えられるのではないでしょうか。これも少し前までの考え方で、今では学力社会からの脱却が進むなかで「いい大学」を出るよりも、何かしら「免許」や「資格」を持つことのことを優先し、専門学校などに行くことを選ぶ人が増えてきているとも言われています。また「いい会社」というものに対する不信感から、「いい会社に就職する」よりも、ある程度したら「転職する」ことを考えたり、または自分で「起業する」ための資金集めとして就職することを考えている人が多くなっているとも聞いています。そのような意味で、幸せを求める方法というものはだいぶ変わってきたかもしれません。ただ、それでも基本的なところでは、物理的に豊かであること、良い暮らしができること、健康であることを目指しているという意味では、方法が変わっただけで、内容はあまり変わっていないのではないかと思います。このような、世間一般で言われているような、良い生活をし、良い暮らしの中にあることが「幸せ」であるというような言葉は、聖書の中にも、確かに出てくるのです。聖書でも、確かに神様の恵みとしての生活があるのであり、このような「幸せ」を望むこと自体を否定しているわけではありません。神様がその恵みのうちに、生活を支えてくださっていること、物理的にも恵みを与えてくださっていること、そしてそのことを求めること、祈ることは必要なことでもあり、私たちは、その恵みを共に分かち合い、神様に感謝していきたいと思うのです。

 

4: 貧しい者は幸いである

 そのうえで、イエス様は、【貧しい人々は、幸いである】(ルカ6:20)と言われました。これは「だから貧しい人になりなさい」と言っているわけではないのです。イエス様は「貧しいことが幸いであり、泣いていること、飢えていること、人に憎まれていることが幸せだから・・・そのようになりなさい」と言っているわけではないのです。イエス様の語られたこと、それは「貧しい人々は幸いである・・・それは、神の国はあなた方のものであるからだ」ということ、つまり「貧しい者となること」ではなく「神の国」を受け取ることが出来る者、神の国を喜ぶことができる者。その者が幸いであると教えられているのです。「貧しいこと」「飢えていること」「泣いていること」、それらのこと、その状態にあることによって、神の国が与えられ、満たされるようになり、笑うようになる。だからこそ、貧しいあなたがたは「幸いである」、と主イエスは教えているのです。

 聖書が教える「幸せ」。幸せであるということ。それは、貧しいということから、自分の無力さを知ること、自分の中には、もはや何も誇るものも頼りとするものもない。そのように、自分の力の無さを知り、自分の弱さを知る中で、神様により頼んでいく者となること。その中で、神様に目を向け、神様を求めていく、「神様、助けてください」と求める時、そこに「幸せがある」とイエス様は教えられているのです。これが本当の幸せなのです。貧しいこと、つまり自分が何ももっていないことを知り、それでも生かされているということ。自分で生きているのではなく、神様によって生かされているということ。神様が備えて、導いてくださると信じること。その中で生かされていることを、感謝する者とされるとき、「あなたは幸せである」と教えられているのです。逆に、現在の状態において、満足している人々、それが「富」でも「名誉」でも「地位」であったとしても、そのようなものによって、満足していること。そのことによって、現在、笑うことができている人々。その笑いの基、なぜ笑っているのか・・・それが「富」や「名誉」や「地位」を持っているから・・・となるとき、それは決して本当の幸せではない。そのようなものはいずれ崩れ去ってしまう。だから、そのような物を幸せの土台としているとき、神様を必要としないで、その生活において、神様を中心とせず、神様ではないものを中心としてしまっている状態を、まさに「不幸」な状態と教えられているのです。

 

5:  イエス・キリストによって

 幸せとは・・・「貧しい」から「富んでいる」からということではない。どのような状態であったとしても、神様を見ているかどうか。神様を必要としているかどうか。神様に愛されているということを求めて、受け入れているかどうかなのです。わたしたちは、神様が、わたしたちを愛してくださっていること、神様が命を与え、日々の命を養ってくださっているということを覚えたいと思います。私たちが幸せとすること、それはただただ、神様を神様とし、私たち自身は、この神様に今も愛されているということ、神様の愛に包まれて生かされているということ、このことを受け取る時に、本当の幸せ、変わることのない幸せを知ることができるのでしょう。

そして、神様は、私たちが自分の弱さを認め、神様を必要として生きる道を開くために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。私たちが自分の弱さを認めたからではなく、何もしていない中、むしろ、神様を忘れ、中心にいつも違うものばかりを置いている、そのような私たちのために、イエス・キリストは来てくださったのです。そして、イエス・キリストは、そのような私たちと、今も、これからも、いつ、どのような時にあっても、共にいてくださり、私たちを導いていてくださるのです。私たちの喜び、幸せは、このイエス・キリストによって与えられた福音に基づくのであり、そのイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちは、喜ぶ者とされているのです。実際の生活が、どれほど貧しく、飢えていて、泣いている状態にあっても、そのようなときにこそ、私たちは、自分たちで頑張ろうとするのではなく、主イエス・キリストが、私たちと共にいてくださっているということを覚えたいと思うのです。主イエスは、そのような私たちと共にいて、共に泣き、共に悲しんでくださるのです。そして、私たちを神様との正しい関係へと導いてくださるのです。私たちは、この主イエス・キリストの福音を今一度、受け取り、この喜びに与っていきたいと思います。(笠井元)