1: パウロを推薦するもの (1-3)
当時、人々は旅行をするときに、友人から友人への推薦状をもっていたことが多くありました。パウロも時々推薦の言葉を語っています。(Ⅱコリント8:22-24)(ローマ16:1-2)【ある人々】(1)は、パウロが推薦状を持っていないことから、コリントの教会の人々を惑わしたのです。
この批判に対して、パウロは「自分は神様の召しによって使徒とされた」と語り、対抗し続けました。【わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。】(Ⅱコリント10:12)【自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。】(Ⅱコリント10:18)【人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ】(ガラテヤ1:1)
今日の2節、3節においては「自分たちには推薦状は必要ないが、もし必要だとすれば、キリストが自分たちを用いてお書きになられたあなたがた自身です。」と言います。コリントの人々はパウロたちの働きによって変えられた者たちでした。コリントの教会の人々は、神の霊によって変えられたのです。その魂、心の奥底にある最終的な信仰の変化を、人間が行うことはできないでしょう。神様を信じる出来事、その愛を喜びとし、キリストに従い生きる者と変えられること、それは神様の御業であり奇跡の業なのです。
2: 資格・ふさわしさ (4-6)
パウロは、自分たちは「新しい契約に仕える資格」(6)を与えられていると語ります。5、6節にある「資格」という言葉は、2:16においては「ふさわしい」という言葉で訳されています。パウロは自分自身の中には神様に仕えるほどのふさわしさ、資格があるわけではなく、神様から頂いていると語ります。
私たち自身の中に福音に仕える資格、ふさわしさはないのです。私たちは、ただ神様の一方的な恵みのうちに選び出され、救いを得て、その福音に働く者とされているのです。私たちは自分の無力さに落胆することもなければ、自分の力に過信することもない。ただ神様の福音を喜んで受けて、福音を宣べ伝える者として働かされ、生きるのです。
3: 福音と律法 (7-11)
パウロは「石の板ではなく心の板」(3)、「新しい契約」(6)という言葉を使います。パウロを批判していた人々は、ユダヤの律法を大切にしていた人々であったとされます。
【こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。】(ローマ7:12-14)
神様が与えてくださった、律法自体は善いものであり、正しいものなのです。(Ⅱコリント3:7-11) パウロは、コリントに来ていた律法を重んじる人々に対抗するために、律法を超えて働かられたイエス・キリストによる福音の偉大さを語り続けます。
パウロは、もともと熱狂的に律法に従い歩んでいた者でした。パウロはこの律法を守るため、キリスト者を、律法を守らないとして迫害していたのです。そのようなパウロだからこそ、この律法は人に罪を教えるものであり、それに対して福音こそが人に救いを与えるものであることを力強く語るのです。これは、パウロ自身が受けとった福音の出来事だったのです。
4: 取り除かれた覆い (12-18)
パウロは【モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。】(Ⅱコリント3:13)と言います。
この言葉は出エジプト記34章の場面からの言葉となります。(出エジプト記34:29-35)モーセの顔が神様の栄光で輝いて、イスラエルの民が畏れて近づけなかったため、モーセは神様と向き合う時以外の時には覆いをかけたのです。
今日の箇所でパウロが語る言葉は、この出エジプト記34章に記されている意味とは少し違う意味でモーセが顔に覆いをかけたと語ります。パウロは、モーセの顔の光はいずれ消えていくため、そのような消え去る栄光を見せないために覆いをかけたとするのです。
パウロは、そのようないずれ消えてしまう栄光に対して、自分たちはキリストという変わることのない栄光を受けた者として、覆いをかけることはしないと語ります。11節にあるように、消え去るべき栄光とされた律法から、永続する栄光として与えられたキリストによる福音を受けたものとして、それに覆いをかけることなく表わしていくことを語ります。
パウロは自分を非難する者たちは心には覆いがかかったままだとします。パウロは主の霊により、キリストに目を向ける時、覆いは取り去れると言います。私たちは皆、このキリストの霊によって導かれ、覆いを除かれて、神様の栄光を映し出す者として造り変えられていきたいと思います。