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2023.3.26 「神はすべての人を愛されている」(全文)  ルカによる福音書6:27-36

1:  敵と味方

 今日の箇所は小見出しにもあるように「敵を愛しなさい」といった内容の御言葉となります。イエス様は言われました。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6:27この「敵を愛しなさい」という御言葉は、一般的にも聞いたことがあるという人も多く、私は、以前「クリスチャンと言えば・・・敵を愛するんじゃないの」「あなたは本当にクリスチャンなの」と言われたこともあります。聖書には、「そんなこと言われても・・・さすがにできません・・・」といった、実際に実行に移していくことが難しいと感じる言葉がいくつもあります。今日の、この御言葉「敵を愛する」ということも、その一つの言葉ではないでしょうか。私たちは、「敵を愛しなさい」と言われても、実際にその言葉を実行していくことは、なかなか難しいものだと思うのです。今日は、このみ言葉「敵を愛する」ということを共に考え、私たち自分にとっての生きる御言葉、自分の生活における大切な言葉、として受け取っていきたいと思います。 

 私たちが、この「敵を愛する」という言葉を考えていくときに、まず見ていきたいのは、この箇所では「敵」と対比して「自分を愛してくれる人」が示されていることです。ここでは、対照的な言葉、「敵」と「自分を愛してくれる人」とありますが、実際に生きる、私たちの周りの人間関係は、こんなにも明確に、「敵」とか「自分を愛してくれる人」、つまり「敵」「味方」と分かれているでしょうか。皆さんにとって、いわゆる「敵」という人はどれくらいいるでしょうか。または、「味方」という人はどれくらいおられるでしょうか。そしてまた、「どちらでもない」という人がどれほどいるでしょうか。どちらかというと、この中で、「どちらでもない」「どちらかというと・・・なんとなくの関係」といった人間関係にある人が一番多いのではないでしょうか。ただ、その中でも、少し話しづらい人、まあ顔を合わせること自体は問題ないけれど、なんとなく一緒に居づらい人などがいれば、実際にすこし悪口を言いたくなる人、自分を大切に思ってくれていないと、一緒にいることがイライラする・・・一緒にいたくないとわりと強く思う人もいるかもしれません。または、なんとなく一緒にいることが苦痛ではない、まあ話していても楽しいけれど・・・別に一緒に遊ぶほどではないといった、微妙な関係にあることもあるのではないでしょうか。私たちは、「敵」「味方」とはっきりと分けられてはいなくても、なんとなくですが、隣にいる人、もう少し距離をもつ人、なんとなく一緒にいられる人、そうでない人、関係を持ちたい人、持ちたくない人、それなりの思いをもって、関係を作っているのではないでしょうか。

 イエス様は、このような私たちに、「あなたの敵を愛しなさい」と言われます。この言葉は、私たちに、いわゆる「敵」という関係の者を愛しなさいということだけではなく、あなたにとって、それこそ、少し関わりにくい人、なんとなくでも、一緒にいることが嫌な人、あまり関係を持ちたくない人をも「大切にしなさい」と言われている言葉として受け取っていきたいと思うのです。そして、それは、人間関係において、「敵」「味方」と区別することなく、それは、小さな関係の違いを持ちながらも、すべての人と同じように、「愛しなさい」と言われている言葉なのです。

 

 

2:  人間の不完全さ

「敵を愛する」。それは「全ての人と愛をもって接する」ことでもあります。このようなことが、私たちができるのでしょうか。皆さんはできるでしょうか。私にはできていないでしょう。イエス様は一体何を私たちに教えているのでしょうか。「すべての人と愛をもってかかわる」。イエス様の言葉を聞くときに、私たちは、自分の弱さ、未熟さ、不完全さを教えられるのです。人間はあくまでも不完全な者なのです。どれほど頭が良くても、人と話すことが上手に見えても、誰とでも仲良くできていそうでも、そこに完全な愛を持つということは難しいものです。人間は、完全な愛を持つ者ではない。どこかしらで欠けている者、不完全な者なのです。このイエス様の言葉「あなたの敵を愛しなさい」という言葉は、そのことを、私たちに教えます。そして、それは同時に、人間が隣人と関わり生きるためには、神様の愛が必要であるということを教えているのでもあります。

 私たちは自分の不完全さを知ることで、落ち込んでしまうことがあります。「あの人とケンカをしてしまった」「あの時あんな言葉を言わなければよかったのに・・・つい言ってしまった」「あの人を傷つけてしまったのではないか」または、「その言葉が自分の心を締め付けてくる」といったことが、皆さんにもあるのではないでしょうか。私たちは、このような思いになり、落ち込むことがありますが、そこから否定的に生きる者となるのではなく、むしろ、だからこそ、神様が、私たちを愛してくださっているということを覚えたい。私たちにはできない。そうではなく、私たちはだからこそ、神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださった。イエス様が、私たちを受け入れてくだっている。神様が、私たちを愛してくださっている。私たちは、この神様の愛の完全さを見ていきたいのです。

 どれほど、自分が弱くても、どれほど人を傷つけてしまったとしても、神様はそのような私たちをも、愛してくださっている。このことは変わらないのです。しかも、その愛は、私たちの持つ何かによって、変わることはないのです。私は、先天的な持病を持っています。そのため、自分は神様の愛から外れてしまったのではないかと思ったこともありました。皆さんも、自分の弱さ、醜さ、不完全さを見るときに、神様は自分のことを愛してくださっているのか・・・と悩んだこともあるのではないでしょうか。神様は、そのような、わたしたちすべての人間を完全な愛で愛してくださっているのです。その大きさ、その関係の深さ、神様からの完全な愛によって、私たちはつなげられるのです。

 

3:  神様が他者を愛することを受け入れられない

ただ、この神様の完全なる愛を、受け入れることができない、または神様がこの完全なる愛で他者を愛することすらも受け入れることができない、それが私たち人間にはあるのです。聖書では、そのような神様が他者を愛することを受け入れられないということを記したお話がいくつかあります。有名なところでは、放蕩息子というお話に出てくるお兄さんの姿は、まさに弟が愛されていることを受け入れることができなかった、一つの姿として見ることができます。

 旧約聖書にはヨナ書という箇所がありますが、このヨナ書でも、この他者への神様の愛を受け入れることができないヨナの姿が描かれているのです。ヨナ書のすべてをお話することはできませんが、少し、説明したいと思います。ヨナ書では、預言者ヨナが、ニネベという当時イスラエルの敵国、アッシリアの都市に遣わされます。ヨナ書で有名なのは、このとき、ヨナが神様から逃げたこと、しかし、ヨナの乗る船は嵐にあい、ヨナが海に放り込まれたということや、その後、魚に食べられて、三日三晩祈ったこと、そして助け出されたということなどです。

今日お話ししている、他者を愛する神様の愛を受け入れなかった、ヨナの姿は、そのあとの話となります。ヨナは、逃げ出すことができず、最終的に神様に従い、アッシリアのニネベに行ったのでした。ヨナがニネベに行き、神様がニネベを滅ぼそうとしているということを伝えたところ、ニネベの王様、そして人たちは悔い改めて、神様に救いを求め、祈ったのでした。そして、その姿を見た神様は、思いなおされ、災いを下すのをやめられたのです。これだけ見ますと、ヨナの働きによって、アッシリアのニネベの人々が悔い改め、救われたということですから、良かった、良かったとして終わるはずなのですが・・・この後ヨナは、このニネベの人々が救われたことを怒り、神様の愛、憐れみを受け入れられなかったのでした。

【ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」】(ヨナ4:1-3

 ヨナは、ニネベの人々、つまり敵国の人々が赦されることを怒り、神様の忍耐深さ、神様の慈しみ、その憐みの思いを不満に思い、最後は、「わたしの命をとってください」とまで言ったのでした。ヨナは、神様が敵国を愛し、悔い改めるニネベの人々を赦したことを受け入れられなかったのです。皆さんは、この話を聞く時、ヨナはなんとも心が狭いのか・・・と思うでしょうか。私はずっとそのように思っていました。「別に、赦されたのだからいいではないか」と感じていたのです。 

ただ、このニネベの人々とは、北イスラエル王国を打ち破り、イスラエルの多くの民を殺し、また多くのイスラエルの民を奴隷としていった敵国の人々でした。ヨナにとってみれば、その存在自体が許しがたい存在だったのでしょう。皆さんは、そのような存在にある者が、神様に愛されていることを、許すことができるでしょうか。自分の大切な人を傷つけ、人生を破滅に導いた人々です。本当に、自分にとっての「敵」となります。そのような者を赦すことができるのでしょうか。ヨナはできませんでした。そしてそれは、ヨナの心が狭いのではなく、人間の愛の限界がそこにあるのです。

 人間は、自分の力で敵を愛することはできない。それだけではなく、敵を愛する神様の愛を受け入れることもできない。神様が、自分の敵、自分が嫌う人、自分にとってよくない存在とされる人を愛することを受け入れることができないのです。これが私たち人間なのです。そして、それは、敵とまで言わなくても、自分でない人、自分が少し気に入らない人、またはもしかすると、自分にとってわりと好きな人でも、自分にとって大切な人であったとしても、自分よりだれかが愛されると思うとき、そのことを受け入れることができないことがあるのではないでしょうか。

 

4:  敵・人間を愛された神

 そして、だからこそ、そのような私たちのところに神様は、イエス・キリストを送って下さったのです。「敵を愛することができない」、「神様が他者を愛することを受け入れることができない」。そのような私たちのために、神様は、御子イエス・キリストを、十字架にかけ、私たちすべての人間に、神様の愛を示されたのです。十字架におけるイエス・キリストの死。この出来事は、神様の御子、イエス・キリストを人間が殺したという出来事です。神様の愛する子、自らの子を人間が殺したのです。神様は、その苦しみ、痛み、嘆く御子イエス・キリストが、殺されていくその姿を沈黙の中、見続けられた。これがどれほどの苦しみでしょうか。耐えることのできない苦しみです。しかし、神様は、この出来事から、人間を憎み、怒りを持って、人間を罰したのではなく、この出来事を通して、愛を完成されたのです。神様は、どこまでも人間を愛された。まさに、自分の子を殺す、その者たちを赦され、受け入れられたのです。これが神様の愛なのです。

 神様は、愛することができないでいる、私たちに、イエス・キリストの十字架を通して愛を、与えてくださったのです。私たちは、自分自身の力で、お互いを認め合うこと、受け入れあうことはできないかもしれません。だからこそ、私たちは、この神様の愛を受けて、このイエス・キリストの十字架に支えられて、その神様の愛を現す者とされていきたいと思うのです。それはまた、私たちが、自分の力を信じて歩むのでも、また他の何かを信じて歩むことでもなく、神様の愛の中で生かされていることを、神様の御手によって支えられていることを信じることによるのです。

 

5:お互いのために祈る

私たちが、「敵を愛する」ということは、自分に悪口を言う人々、そして自分のことが嫌いな人々と関係を、断ち切ることや、その関係を忘れることではなく、そのような人々との関係を忘れるということによって、憎しみや、恨みを、忘れていく、そのような消極的なものではなく、・・・神様が、人間を愛したように、お互いを愛し、お互いのために祈ることを教えられているのです。イエス・キリストは、そのような人々のために、祈りなさいと、積極的な愛を教えられているのです。

 積極的な愛。イエス・キリストは、まさに十字架という苦しみの中で、私たちのために祈られたのです。そして、このイエス・キリストが祈られた、祈りによって、私たちは、神様の愛を受けることが赦されているのです。『〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕』(ルカ2334)イエス・キリストは、十字架の上で、その苦しみの中で、自分のことを十字架につける者たちのために祈られたのでした。私たちは、このイエス・キリストの祈り、その愛を受け、そして、お互いのために祈り合う者とされていきたいと思います。イエス・キリストが言われた、愛。それは、まさに積極的な祈りを通しての愛です。

 

そして、それは、よい関係を築けないでいること、そのような自分を認め、そして、神様の前に差し出すことから、始まるのです。祈りは、主イエス・キリストの御名を通して、神様に捧げるものです。私たちは、そこに、自分のありのままを捧げ、そして、主イエス・キリストが、自分の代わりとなって、愛を築いていてくださることを信じ、祈ることが赦されているのです。私たち人間の力だけでは、どうしようもない関係、どうにもできない関係を、イエス・キリストに委ねていく。神様の愛をいただくこと、お互いが愛されていることを受け入れるための祈り。私たちには、その祈りが、求められているのであり、その祈りこそ、神様から与えられた、積極的な愛として、あるのです。私たちは祈りを通して、自分が中心となった関係ではなく、神様から与えられた、イエス・キリストという、愛を通しての関係を築いていきたい。お互いを、認め合い、赦しあう、関係を持つ者と変えられていきましょう。私たちは、この神様の愛をしっかりと受け入れていきましょう。そして、この神様の愛によって、私たちは、つなげられていく。共に生きる者へと変えられていきたいと思うのです。(笠井元)