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2023.4.2 「自分を救わず、あなたを救い出した方」(全文)  マルコによる福音書15:21-32

 1:  ユダヤ人の王

 今日から受難週となります。イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために、十字架で死なれました。私たちが受けるべき苦しみを、イエス・キリストが受けてくださったのです。受難週は、このイエス・キリストの十字架を覚えて、心を静め、過ごしていきたいと思います。イエス様が十字架につけられた、その罪状には「ユダヤ人の王」と書かれていました。ユダヤ人の王とは、一つには、ローマ帝国に対して反乱を起こす、危険分子、反逆罪として十字架刑で殺されたことを意味します。このとき、イエス様は、なぜ十字架につけられたのか。それは罪状書きによれば、イエス様が人々を惑わし、ローマ帝国に対して反乱を起こし、ローマ帝国の守っている社会を破壊する者、反逆者であったとされ、十字架で殺されたということになるのです。反逆罪はとても大きな罪となります。人々が暮らす社会を破壊し、混乱に招くことですし、間違えると国家の危機にもなるのです。イエス様は、そのような社会を乱し、人々を混乱に導く者として、ここでは「ユダヤ人の王」として、十字架につけられたのでした。

 これに対し、ユダヤの祭司長たちや律法学者たちは、イエス様が「わたしは神の子だ」と言ったり、自分たちが大切にしていた律法を守らないことから、神様への冒涜者として、イエス様を殺そうと考えていたのです。ユダヤの人々による、神様に対しての冒涜罪であれば、イエス様はユダヤの習慣としては、石打ちの刑となっていたと考えられます。ただ、この時、ユダヤはローマの支配下にあったため、ユダヤの祭司長、律法学者は、イエス様をローマの総督ピラトに渡して、ローマの法にのっとり、イエス様は冒涜罪ではなく、社会的危険分子としての反逆罪で、ローマの刑罰の方法として、十字架刑をもってイエス様を殺したのでした。

 イエス・キリストは十字架の上で死なれました。この十字架は、今を生きる私たちにとって、何を意味し、何を与え、何を奪い取るのでしょうか。

 

2:  侮辱する者

 ローマの兵氏たち、通りかかった人々、祭司長、律法学者たち、そして一緒に十字架につけられた者たちと、あらゆる人々がイエス様を侮辱していきました。人々は、十字架上で苦しむイエス様を見て、「あなたは他人を救ったのに、自分は救えないのか」と罵ったのです。「自分を救えない」。この言葉は、まさにこの世の価値観を表しているのです。この世においての救い。それは自分で自分を救うことができること。それがこの世の救いなのです。皆さんは、人生においてどのようなものを求めているのでしょうか。この世の価値観は、それぞれがそれぞれに豊かになることを教えます。そして、自分の人生が豊かになることが出来た者を勝ち組とするのです。だからこそ、この社会において、人は、自分が権力を得、自分の財産を増やし、自分の名声が世間に知れ渡ることを求めていくのです。「自分で自分を救うことができる」。「自分の力で生きることができる」。「他者に迷惑をかけない」これがこの世の生き方です。世の中では「自己肯定感」という言葉が拡がり、それぞれが自己肯定感を持つことができるように教えています。それ自体は悪いことではないでしょう。自分には存在価値があると思えることはとても大切なことです。

ただ、では、私たちは何をもって、自分には存在価値があるとするのでしょうか。自分の力で生きるだけの力を持ったから、自分で自分を救うことができるからだとしたら・・・私たちは本当にその「自己肯定感」を持つことだけでいいのかと、疑問を抱くのです。「自己肯定感」を持つことは、「自分中心に生きる」「自分さえよければよい」・・・いわゆる「自己中心」に繋がることがあるのです。

 

 3月13日からは、世間では新型コロナウイルスの感染拡大のためにこれまで行っていた感染予防のためのマスクを着用することも、外すことも「各自の判断で」となりました。また、幼稚園を含め、学校関係は年度の初めからということで、4月1日から「各自の判断で」となりました。これからマスクの着用も、外すことも「各自の判断」となったのです。この「各自の判断」ということは「自由」となったと言うことができるのでしょうか。それは、ただ、誰も責任は持ちませんということなのではないでしょうか。社会は、やはり最後は自己責任。すべてはそれぞれの責任とするのです。その人のことはその人のこと。誰も他者を助けないし、連帯することもない。一緒にその責任を背負うこともない。このような社会だからこそ、まず、私たちは自分のためにだけ生きるようになるのでしょう。

 この世の中は、まず自分のことを自分で支えて生きることが求められます。だれかに頼ること、誰かと支え合うことを勧めはしないのです。そうではなく、自分で生きることができるようになるために、学校で勉強をし、働くように教えるのです。この世は私たちにこのように教えます。「自分のことぐらいは自分でしなさい。せめて、自分のことぐらいは自分でどうにかできるようにしなさい。人に迷惑をかけてはいけない。」そしてそれは、このように続くのです。「自分のことは自分でしなさい。人にもそのようにさせなさい。人に迷惑をかける人とは一緒にいてはならない。そんな人との関係は断ち切りなさい・・・」「あなたは一人だ。あなたはあなたのことだけを支えていればいい。あなた以外の人を助ける必要もなければ、あなたも誰にも頼ってはいけない。」

 これがこの世の価値観です。社会はこの価値観をイエス様に突き付けました。「あなたは自分を救うことができないのか」これは、私たちにも突き付けられるのです。「あなたは自分で自分を守ること、自分を自分で支えることはできないのか」と。そして、自分の力で自分を支えることができない者は、一人の人間として失格者とされ、存在することさえも否定されるようになるのです。いじめ、ハラスメントと・・・自分のことを自分でできない人は、罵られ、その人間としての命の価値さえも認められなくなるのです。

 

3:  十字架から降りなかった方

イエス・キリストは、この社会の価値観を突き付けられ、どれほど侮辱されても、どれほど罵られても、十字架から降りられませんでした。これが十字架のイエス・キリストの姿です。イエス・キリストは自分を救うことはしなかった。そして、そこにこそ、神の救いを示されたのです。イエス・キリストの教える救いとは、自分を救い出すことではなく、他者を救い出すことでした。言い方を変えるならば、「イエス・キリストは自己を肯定する、自己肯定感に浸るのではなく、他者が生きることを肯定された」。イエス様は、弱く、小さく、自分で生きることが出来ない者に・・・「あなたがどれほど弱くても、あなたがどれほど自分では力がないと思っても、それでもあなたは神様に愛されている。」「あなたが生きている価値は、そこにある。」「神様があなたの存在を喜んでいる。」「あなたの存在する意味は、神様に愛されているということ、それだけで十分だ」と教えられているのです。ここに神様の愛、神様の与える新しい価値観があるのです。イエス様は、自分を救い出すことではなく、他者を救い出すことを徹底的に実行された。他者のために生きて、他者のために死なれたのです。ここに神様の愛が現わされたのです。

 

4:  十字架を見上げて生きる

 わたしたちは今、このイエス・キリストの十字架を見るときに、どのように生きるべきか問われているのです。「あなたは、自分のためだけに生きるのですか」「本当にそれでいいのでしょうか」「あなたの力、あなたの知恵、あなたの財産、それらを得るために頑張ってきたあなたの努力、あなたの人間関係、あなたの祈り、あなたの心、あなたの信仰、あなたの愛は何のためにあるのですか。」イエス・キリストの十字架。それは、この世の社会に反する者としての象徴でもなければ、神様を冒瀆した者としてなされた出来事ではないのです。十字架は、ただ神様の愛が示されるために、神様が人となり、人のために苦しみ、人を愛してくださった出来事です。イエス・キリストは自分の命をかけて。自分自身を誰よりも小さな者、誰よりも弱い者とし、すべての人間に侮辱され、罵られる者となり、そこに、私たちを愛する愛を示されたのです。私たちが持つべき自己肯定感、自分の存在を認める根拠は、この一点、「キリストの十字架」「神様の愛」にあります。

 私たちは、この神様のなされた業、イエス・キリストの十字架を見る時、その弱さを侮辱するのでしょうか。それとも、イエス・キリストの十字架の姿を見上げて、自分の生きる意味を見るのでしょうか。

この受難週の時、私たちは、イエス・キリストの十字架と向き合いたいと思います。

自分を救い出すのではなく、他者を救い出した業。自分を捨ててまでも、私たちを愛した業。この十字架を見て、どのように生きるのか。どのように歩んでいくべきなのか、考えてつつ、この受難週を過ごしましょう。(笠井元)