1: ユダヤ人の王
今日から受難週となります。イエス様は十字架につけられました。その罪状には「ユダヤ人の王」と書かれていました。ユダヤ人の王とは、一つには、ローマ帝国に対して反乱を起こす、危険分子、反逆罪として十字架刑で殺されたことを意味します。ユダヤの祭司長たちや律法学者たちは、神様を冒涜する者として、イエス様を殺そうと考えたのです。ただ、この時、ユダヤはローマの支配下にあったため、イエス様は冒涜罪ではなく、社会的危険分子としての反逆罪とし、ローマの刑罰の方法として十字架刑をもって殺されたのでした。
2: 侮辱する者
ローマの兵士たち、通りかかった人々、祭司長・律法学者たち、一緒に十字架につけられた者たちと、あらゆる人々がイエス様を侮辱していきました。人々は、十字架上で苦しむイエス様を見て、「あなたは他人を救ったのに、自分は救えないのか」と罵ったのです。この言葉はこの世の価値観を表します。この世においての救いとは自分で自分を救うことです。社会はこの価値観をイエス様に突き付けました。「あなたは自分を救うことができないのか」。これは、私たちにも突き付けられるのです。「あなたは自分で自分を救うことはできないのか」と。
3: 十字架から降りなかった方
イエス・キリストはどれほど侮辱されても十字架から降りられませんでした。イエス・キリストは自分を救うことはしなかったのです。イエス・キリストの教える救いとは、自分を救い出すことではなく、他者を救い出すことであったのです。ここに神様の愛、神様の与える新しい価値観があるのです。イエス様は、自分を救い出すことではなく、他者を救い出すことを徹底的に実行された。他者のために生きて、他者のために死んだのです。
4: 十字架を見上げて生きる
わたしたちは今、このイエス・キリストの十字架を見るときに、どのように生きるべきかが問われているのです。「あなたの力、あなたの知恵、あなたの財産、それらを得るために頑張ってきたあなたの努力、あなたの人間関係、あなたの祈り、あなたの心、あなたの信仰、あなたの愛は何のためにあるのですか。」
この受難週の時、私たちは、イエス・キリストの十字架と向き合いたいと思います。自分を救い出すのではなく、他者を救い出した業。自分を捨ててまでも、私たちを愛した業。この十字架を見て、どのように生きるのか考えていきましょう。(笠井元)