主イエスの復活を祝うイースターおめでとうございます。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。(マルコ16:6)
1.マルコ12:18-27に登場する復活信仰への「思い違い」について触れます。人間が自分の経験と知恵から類推する神などは神ではなく、それは等身大かそれよる少し大きな自分の偶像でしかありません。そこからは復活信仰は出てきません。
2.復活問答の背景
ローマ帝国の属州に生きるユダヤ人の間では、サドカイ派とファリサイ派が対立してり、前者は宗教的には保守的であり、貴族として上流階級であるために、ギリシヤ・ローマ文化に対しては自由でした。ヘブライ語聖書の最初の5つの書物を「トーラー」として認め、預言書や諸書、そして口伝律法を認めません。また、復活など不合理であるとしました。後者は敬虔であり、ローマ帝国には批判的でして、死者の復活を信じていました。
3.サドカイ派の言い分とその思い違い
サドカイ派はモーセ5書の申命記25:5-10のいわゆる「レビレート婚」を根拠にしています。婚姻関係において、妻が夫に死なれ、子がない場合は、土地相続のためその寡婦と死んだ夫の兄弟もしくは最も近い親族が結婚し、子孫を残すという制度です。復活などがあれば次々に7人の兄弟と結婚した女性は、もだれの妻となるのかというのです。
4.神への信頼における自由な生き方への招き
しかし、どの人を最も愛したなどという比較が成り立つのでしょうか?また、彼女はどの男の妻かとあたかも所有物のように考えていることも気になります。主イエスは、復活が成就するときに「人はもはや、娶ることも嫁ぐこともない。天使のようになるのだ」と宣言されました。これは、夫婦や家のしがらみに生きる私たちには、何と素晴らしい自由でしょうか!復活信仰の内実はこの自由を生きることなのです。
5.神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である
人は他者との関係にいて、他の被造物との関係において生きる者ですが、何よりも神との関係に生きています。神は生ける神であり、人を生かす神であり、アブラハムにはアブラハムの神として、イサクにはイサクの神として、ヤコブにはヤコブの神として、まさに、個々を生かし、しかも一貫した愛と命の主として存在し、生きとし生けるものの根底に居て、わたしたちを支え、うなだれるときには引き上げたもうお方なのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
6.結語
主イエスを死者の中から引き上げられた、命と愛の勝利の神に信頼して生きましょう。(松見俊)