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2023.4.9 「神は生きている者の神である」(全文)  マルコによる福音書12:18-27

 主イエスの復活を祝うイースターおめでとうございます。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』と。(マルコ16:67

 復活を表現する言葉には2通りあります。一つは今読んだマルコ16:6で、「エゲイロー」(ヤイロの娘の物語がありますね)、引き上げるという意味です。ですから「あの方は引き上げられて、ここにはおられない」という翻訳が良いです。もう一つは「アナスタシス」(もう一度立ち上がる)でマルコ12:18に登場しています。いずれにせよ、今朝のメッセージは十字架につけられ殺され、葬られたイエス様の復活、死者の中から引き上げられたことです。それを心から喜び、祝うことです。歴史的事実はイエスを葬った墓にはイエスの遺体は確認できなかったことです。もし、イエスの遺体が確認できていたらキリスト教信仰も教会も存在せず、東福岡教会も、私もこのような私として存在していないでしょう。

 

1.大変な思い違い(planasthe, poli planasthe

 まず復活信仰への「思い違い」について触れておきます。27節では「大変な思い違い」とあります。私は25歳で神学校を卒業して、名古屋市の瑞穂キリスト教会の牧師として赴任しました。赴任してから数年後電話があり、若い男性の声で「今から訪問しても良いか」と聞かれました。「ハイ」と答えました。待っていますとなんと4人の若者がやってきました。信仰的対話は基本的に1対1ですので、「おかしいなあ」と思いました。牧師館の応接間に4人を招き入れると、「お前は復活について説教しているだろう。科学的に証明できないものを今後いっさいしゃべるんじゃない!」と来ました。1時間以上二時間近く押し問答をし、帰ってくれと言っても帰らないので、警察に電話しました。警官がやってきましたが、「お巡さん、復活を信じますか」と4人の若者が聞くと、警官は「うん、信じられないね。でもそれとこれとは問題が違う。家主が帰れと言っているのに留まっていると不法家宅侵入罪になるぞ」と

言いまして、4人はすごすごと帰っていきましたが、私は苦笑いです。復活は身体的、物理的なことがらではなく、科学的な考え方そのものを問いかけるものですから、イエス様がよみがえらされ墓がからであったこと、弟子たちに「お目にかかる」、ご自身を弟子たちに見せられた(opsesthe)という体験を信用するかどうかにかかっているわけです。

 

2.復活問答の背景

 以上の誤解は決して現代的誤解ではなく、イエス様の生きられた当時も復活を疑問視していた人たちがいました。その事実をしるために、マルオ12:18-27の対話の背景に触れておきます。これは主イエスがエルサレルの神殿の境内に入られた受難週における問答です。主イエスは、信仰者として生きる上で重要なこと、つまり、ローマ帝国の属州に生きるユダヤ人はあるいは信仰者は、ローマ帝国への税金を払うべきかどうかの課題(1317節)、そして、重要な戒めの要約(2834節)、主イエスはダビデの子であるのかダビデ以上の存在なのか(3537節)などの対話の中で、復活について述べられたものです。サドカイ派の人々はファリサイ派の人々と対立していました。サドカイ派は古くは、祭司ザドクに由来している祭司階級です。神殿礼拝を司ることもあり、宗教的には保守的であり、貴族として上流階級であるために、ギリシヤ・ローマ文化に対しては妥協的で、開かれていました。祭司のトップである大祭司はサドカイ派から出すきまりでした。今日は統一地方選挙の投票日ですが、当時は、ユダヤ人はローマ帝国からある程度の自治を許されており「サンヘドリン」という議会がありました。合計70名から構成されていました。祭司が24名、民の代表である長老が24名、そして律法学者が22名です。サドカイ派は、モーセ5書つまりヘブライ語聖書の最初の5つの書物を「トーラー」として認め、預言書や諸書、そして口伝律法を認めません。これに対して、ファリサイ派は信仰熱心であり、ローマ帝国に距離を持つというか批判的でして、死者の復活を信じていました。サドカイ派は復活を信じていませんでした。

 

3.サドカイ派の言い分とその思い違い

 では、サドカイ派の言い分とその思い違いについて光を当ててみましょう。サドカイ派はモーセ5書の申命記25:510のいわゆる「レビレート婚」を根拠にしています。当時は経済の要は土地を所有することでしたから、子どもがいないことが大問題でした。そこで、ある婚姻関係において、妻が夫に死なれ、子がない場合は、その寡婦を死んだ夫の兄弟もしくは最も近い親族が結婚し、子孫を残すという制度です。日本でもこのような習慣が残っており、私の大好きな叔母さん、いつも不二家のショートケーキをお土産に買ってきてくれる叔母さんは、最初結婚した人がなくなり、弟と結婚して過ごしていました。サドカイ人はこの習わしを利用して尋ねます。子を産まずに夫に先立たれ次から次に7人の兄弟と結婚した女性は、もし復活などあったらだれの妻となるのかというのです。もっと露骨に翻訳するとその妻はだれのものかとなります。後かも妻は夫の所有物のような感じです。死後の世界などがあれば、寝室に7人の男性がいたらどうするのかということでもあるのですが、私は今までこのような極端な議論を馬鹿にしてサドカイ派の理屈を考えたことはありませんでした。しかし、今回説教を準備する際に少し考えてみたのです。そして、この議論はサドカイ派の立場に立っても愚かな議論であると思いました。

 

4.神への信頼における自由な生き方への招き

 現代社会に即して考えてみると、婚姻関係になる相手が死ぬこと、また、離婚や再婚、再再婚などの事例が結構あるでしょう。そのような人にとって、どの人を最も愛したなどという比較が成り立つのでしょうか?それぞれの人に対して真剣に、真実に向かい合って生きたのであれば、その時点、その期間は互いに意味のある、満足できるものではなかったのでしょうか?前の夫や前の妻のことを考えて比較しているなら、それは人間として大きな問題でしょう。彼女はどの男の妻かとあたかも所有物のように考えていることも気にかかります。それゆえ、この問答をサドカイ派の視点から考えても彼らは大変な「思い違い」をしていないでしょうか?  

主イエスは、復活が成就するときに「人はもはや、娶ることも嫁ぐこともない。天使のようになるのだ」と宣言されました。これは、夫婦や家のしがらみに生きる私たちには、何と素晴らしい自由でしょうか!復活信仰の内実はこの自由を生きることなのです。私は「夫としての沽券に関わる」とかに縛られていないだろうか 勝手に「もう少し妻らしくせよ」などと思っていないだろうか?と自問自答します。むろん、もう少し夫らしくせよと思っている女性もいるでしょう。兄弟姉妹、あいは妹姉弟兄のように、いやイエス様が言われるように「天使同士」として生きられたらどのように自由でしょうか!私たちは、この世の秩序としては婚姻関係に縛られてはいますが、復活信仰はどこかもっと自由に生きることを意味していないでしょうか?もはや、私たちは、自分の子どもたちの中からメシア=キリストを到来させる必要はないので、イエス様がキリストとして来られたので、単身で生きることも、悪いことではありません。男系男子などにこだわっているどこかの神話的皇室のドサクサを考えるとこの主イエスの宣言は本当に自由です。「死者の中から復活するときは、つまり、今ここで希望において信仰に生きることは、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

 

5.死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ

 主イエスは更に言葉を重ねます。サドカイ派が受け入れている出エジプト記の3章の燃える柴の中からの神顕現の物語です。燃え尽き症候群で落ち込んでいたモーセに燃えても燃え尽きない柴を通して、主なる神(ヤㇵウェ)は彼らの先祖の神「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたのです。人は他者との関係にいて、他の被造物との関係において生きる者ですが、何よりも神との関係に生きているのです。神は生ける神であり、人を生かす神であり、アブラハムにはアブラハムの神として、また、イサクにはイサクの神として、ヤコブにはヤコブの神として、まさに、3つにして個々を生かし、しかも一貫した愛と命の主として、1つの神として存在し、生きとし生けるものの根底に居て、わたしたちを支え、うなだれるときには引き上げたもうお方なのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」ギリシヤ語では、「ゾーントーン」です。ギリシヤ語には「ヴァイオ」という生物学的言葉と「ゾエー」という2つの言葉がありますが、ここでは生き生きと生きることを意味しています。「生ける屍」という言葉がありますが、生物学的に生きていても聖書の証言する「神の力」(dynamis)を受けていないで(24節)、魂が枯渇することがあるのです。しかし、たとえ、肉体や心身が弱り、衰えても神の力によって私たちは生かされるのです。私たちへの神の真実は、「アーメン」は、いかなる悲劇、いかなることが到来しようとも決して揺らぐことはないのです。神は十字架につけられて殺されたイエスと共におられるほど私たちと連帯され、イエス様の死者からの引き上げによっていのちと愛の勝利を宣言されたのです。主は今朝みなさんお一人お一人に言われます。「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」(ヨハネ11:2526)。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。神は死よりもはるかに偉大であるからです。神は神であるからです。イエスが「アッバ、父よ」と呼ばれた神は信仰による約束に忠実であり、人間的な「別離」の悲しみ、嘆きに打ちたれるのです。神はアブラハムが死んでも、イサクが死んでも、ヤコブが死んでも、彼らに対する命の相続の約束を反故にされることはありません。

 

6.結語

 

生ける神に属する者は、死んでも「私はあなたの神である」という言葉の力が生み出す信仰によって生きることができます。それは今日から始まること、あの世ではなく、この世のただ中で起こることなのです。私の友人に寺園喜基という人がいます。彼はカトリックの名門校ラサールを出て、西南学院大学神学部卒業後、九州大学を哲学研究科博士課程に進まれ、九大の教授を経て西南学院の教授をしておられた方ですから、まあ頭脳は優秀ですね。彼がなぜキリスト者になったかを証してくれました。確か中学生の頃、学校の先生が「復活などありえない」と嘲笑的に言ったそうですが、ある男子生徒がすっくと立って「私はイエス・キリストの復活を信じます」と告白したそうです。多数決で言えばたぶん50対1で否決でしょう。しかし、寺園さんはその少年を見て、心揺さぶられ、少年の通っていた鹿児島バプテスト教会でバプテスマを受けたそうです。私もまたイエス様が死者の中から引き上げられ、今も生きて働き、その愛と慈しみと命を私に注いで下さっていることを信じます。神はイエスを死者の孤独と絶望の中から引き上げられた生ける神であり、生きている者の神です。皆様もこの生ける真の神を信頼し、信じない者から信じる者へと回心し、バプテスマを受けるように勧めます。また、すでにキリスト者の方はその恵みの場に留まり続けて下さい。(松見俊)