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2023.4.12 「土の器として」 Ⅱコリントの信徒への手紙4:7-15

1: 宝を納める土の器

 パウロは「イエス・キリストの光」を「土の器」に納めているとします。土の器というと安い物と見られることが多いのですが、当時は高価な物、宝物はこのような土の器に入れられていたようです。つまり、パウロはごく一般的なものとして、いつも使われている土の器にイエス・キリストの光を納めているとするのです。

 私たち人間は、すべての者が同じ土の塵から造られた者です。形は違いながらも、すべての者が良いところも、弱さももっている人間なのです。私たちは土の塵から、神様によって創造されたのです。神様はすべての者を「良し」とされた。わたしたち「土の器」とは、神様に「良し」とされ、「イエス・キリストの光を納める者」とされたのです。創世記では、そのことを神の息が吹き入れられたとします。【主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。】(創世記2:7

 

2: パウロの苦難

パウロは8節9節で「どれほどの苦難の中にあっても、決して滅ぼされない」と語ります。パウロにとっての一番の苦難は何だったでしょうか。様々なところでパウロが命の危険にさらされた場面が記されています。しかし、何よりも深い苦しみは、自分の痛みではなく、パウロが伝えてきた福音を信じた者たちが、そこから離れてしまうことだったのではないでしょうか。

11章ではパウロは自分が受けてきた苦難を列挙します。しかし、その最後に【このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。】(Ⅱコリント11:28)と言いました。パウロの心配事は、あらゆる教会について、キリストに出会い歩き出した人々のことだったのです。パウロは、自分の受けている苦しみは、あなたがたがキリストから受けた恵みを忘れてしまうことだと言うのです。

 

3: 行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない

パウロは「自分は、何があろうとも、行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない」と言います。パウロの働きを見るなら、どのような困難があろうとも負けることのない、非常に強い意志と、力があったと見ることができるのです。しかし、パウロが、どれほどの苦難の中にあっても、行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされなかったのは、パウロの中にある強い意志、力によるのではなく、ただ神様の恵みによるのでした。

パウロもまた、神様に造られた「土の器」です。パウロが何か素晴らしい物を持っているわけではなく、私たちと何も変わることのない人のです。7節後半では【この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。】(7)とあります。

ルターはこのように言います。「ものごとが全くうまくいかなくなって、あらゆる計画や熱意が無駄になったとしても、あなたは神から離れることのないようにしなさい。なぜなら、神は死や無からすべてを呼び出されるからであり、救いも望みももはやないというところから、神の救いがようやく始まるからである。・・・神はそれほどすぐにではないが、あなたの心が慰めと力を感じている間に、あなたが望んでいたよりはるかに豊かに、あなたにお与えになるだろう」(『慰めと励ましの言葉』徳善義和監修、湯川郁子訳p.170

ルターは絶望した時こそ、救いの始まりだ、そしてそのとき、神様は私たちの思いを超えてはるか豊かに慰めと力が与えられると言っています。

聖書はこのように教えます。【もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。】(ローマ8:11

神様は、私たちが生きる気力を失っていくときに、働いてくださり、生きる命、生きる希望を与えてくださるのです。

 

4: イエスの死をまとって

パウロは【わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています】(4:10)と言います。イエスもまた、「土の器」としての人間であり、時に、途方に暮れ、悩む、そのような弱さを持って生きられたのです。そして、イエスは人間として、苦しみのうちに死なれました。このイエス様の死によって私たちは命を得たのです。イエスの死を体にまとって生きることは、イエス・キリストに従い、生きることとなります。12節にあるように、パウロは、自分がキリストに従い生きることは、自分の内に死が働く中で、あなたがたの内に命が働くことであり、そこに「イエスの命」が現れると言うのです。

 わたしたちもまた、「土の器」として、キリストの光という「宝」を納め、キリストの光を輝かせていきたい。キリストの命を表す者として生きていきたいと思います。イエス・キリストに従い生きるということは「わたし」が頑張ることではありません。そしてそれは「あなた」が頑張ることでもないのです。「キリストの光を受けて、お互いに仕え合い、祈り合う」ことなのです。ここにキリストの命が現わされるのです。

 

5: キリストの復活を受けて

14、15節。神様は、イエス・キリストを滅びの道へ向かわせ、十字架という滅びの中に入れられたのです。しかし、神様は、そこからイエス・キリストを復活させられました。ここに、消えることのない光、希望が創造されたのです。私たちがこの世において生きる限り、苦しみや痛みがあります。私たちは、そのような時にこそ、キリストの復活による救いを覚え、感謝をもって神様に栄光を帰す者として生きていきたいと思います。(笠井元)