1: 神様の前に立つ
今日の箇所は39節を境に二分されていますが、その中でも一貫した主題があります。それは、誰かの問題を見てはそのことを指摘するのではなく、まず自分が神様の前に立ち、すべてを包み込んでくださる神様の愛を受け取っていくことが語られているのです。
2: 神様に求める
前半部分、37~38節では「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」と教えます。私たちは何らかの価値基準をもって判断し歩んでいます。その価値基準は、社会、文化、宗教などが影響し、時代と共に変わっていきます。人間の考える「正しさ」というものは変わっていくものなのです。聖書は、「裁くな」と教えます。それは「神様に裁きを求めよ。変わることのない正しさを求めよ」。そして「神様の前に立ち、神様の満ち溢れる愛を頂きましょう。神様の前に立ち、神様の裁き、神様の赦しをいただきましょう」と教えているのです。
3: 三つの譬えから
私たち人間には、人生を生きるための道案内が必要なのです。道案内は光の道を歩まれているイエス・キリストのみがなされる御業なのです。
二つ目のたとえとして「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(40)と言います。「十分に修行を積めば、師匠のようになれる」という言葉は「整えられる」といった受動態の言葉であり、私たちが神様の愛を受ける者として立つときに、神様がその愛で満たしてくださるということを意味しているのです。
三つ目のたとえでは、私たちが、自分の弱さ、その不完全さに目を向けることなく、他人の弱さ、その欠点ばかりを見てしまう者であることが語られています。聖書は「何よりもまず、神様の前に立ちなさい。そうすればあなたは自分の不完全さを知るでしょう。そして、同時にまた、そのような不完全な私たちを愛してくださっている神様の愛を知るでしょう」と教えているのです。
4: 神様に招かれている
私たちは不完全な者であり「正しく人を裁く」こともできなければ、「正しく人を罪人だと決める」そのような力もないのです。そのような私たちを神様は、「わたしの前に来なさい」と「私の愛を受けなさい」と招かれています。私たちは今、神様の前に立ちましょう。そして「裁く者」から「愛する者」へと変えられていきましょう。(笠井元)