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2023.4.16 「神の前に立ち、神の愛に満たされる」(全文)  ルカによる福音書6:37-42

1:  神様の前に立つ

 今日の箇所、ルカによる福音書6:37-42は、39節を境に二つに分けることができます。37-38節は、「平野の説教」の本論の締めくくりの部分となり、39-42節はたとえ話の始まりの部分となります。このように、この箇所は、形の上では、二分されているのですが、その中でも、一貫した主題、テーマがあるのです。それは、37節に【人を裁くな…人を罪人だと決めるな】とあり、39節には【盲人が盲人の道案内をすることができようか。】とあります。そして42節には【「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。」】とあるように・・・人にあれこれ言う前に、まず自分自身を見つめること・・・別の言葉で言うならば、まず、自分自身が、主の前に立つこと、誰かの問題を見ては、そのことを指摘するのではなく、まず、自分が神様の前に立ち、すべてを包み込んでくださる神様の愛を受け取っていくこと、そのように、神様の注いでくださっている愛を、心から受け取っていこうということが、ここでは語られているのです。

宗教改革者であるジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』の冒頭において、「私たちが神様を知る知識と、自分自身を知る知識とは、互いに結び合った事柄である」と言っています。つまり、本当に神様を知ることなしには本当の自分を知ることは出来ないし、また、本当に自分がどんな者であるか、つまり自分がどれほどに弱い者であるかを知ることなしに、神様を慕い求めること、神様の愛を求めることは出来ないと言っているのです。今日の箇所は、形の上では、二つに分けられる箇所でありますが、私たちはこのこと、「神様の前に立ち、神様の愛を受け取っていく」ということを、つながりとして、見ていきたいと思います。

 

2:  神様に求める

 今日の箇所の、前半部分、37~38節では、「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」と教えるのです。この四つの言葉の中でも最初の二つ「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」という言葉は、否定的で後ろ向きな言葉にも聞こえます。それに対して、後の二つ「赦しなさい」「与えなさい」という言葉は肯定的で、前向きな言葉にも聞こえます。ただ、この4つの言葉は基本的に、同じこと、「神様に求め、神様の前に立ち、神様に委ねていきましょう」ということを教えているのです。私たちは、いつも、何らかの価値基準をもって、判断し、歩んでいます。そして、その価値観、価値基準は、社会、文化、宗教などが影響し、時代と共に、変わっていくものなのです。

東福岡教会は、附属の幼稚園がありますが・・・子育て方法というものを見ると、昔と今とでは、子どもの育て方は大きく変わってきています。どちらが正しいかはまたにしてほしいと思いますが・・・抱っこ一つでも、昔は、抱っこ癖がつくからとして、あまり抱っこをしないようにと言われていたこともありました。それに対し、現在は、スキンシップの大切さ、安心感を得るためにも、どちらかと言えば、抱っこをしましょうという主張が強いと思います。また、学校の教育方法も、昭和、私たちの時代は、「詰め込み型」と言われた方法で、とにかく何でも覚えなさいといった方法だったのに対して、私よりも少し若い世代は、いわゆる「ゆとり教育」と言われる、ただ「詰め込む」のではなく、「自分で考える」「生きる力を育てる」といった考え方に変わっていきました。これだけ考えても、時代によって人間の考える「正しさ」というものは変わるものだと思わされるのです。 2020年から新型コロナウイルスという感染症が拡がり、現在は、少し落ち着いてきた中で、マスクをするべきか、外すべきかといったこと、その対応について、それぞれの判断が求められています。  

この世では一体何が正しいのでしょうか。これほどあやふやな価値観を持って、私たちは、人を裁き、人を罪人だとすることができるでしょうか。このような、私たちに、聖書は、「裁くな」と教えます。それは、ただ、自分で人を裁くなと言うことではありません。むしろ「神様に裁きを求めよ」、「世界を創造し、命を造り出し、養っておられる方」。そして、その「責任」を担ってくださる方に、本当の正しさ、変わることのない正しさを求めましょう」と教えているのです。

 

 この言葉に続き、2つの言葉、「赦しなさい」、そして「与えなさい」と続きますが、この二つも基本的に、同じことを教えているのです。聖書は、「あなたは自分がどれだけ赦されているのか、どれだけ与えられているのかを考えなさい」、「神様はあなたにあふれるほどの愛を与えてくださっています」、「その愛は、あなたの思いを越えて、あふれている」「だから、あなたは、他者に対して、『赦してあげよう』、『与えてあげよう』といった思いではなく、感謝して赦し合い、与えあいましょう」と教えているのです。先の二つに合わせて、ここで、聖書は、私たちに「神様の前に立ち、神様の満ち溢れる愛を頂きましょう」「神様の前に立ち、神様の裁き、神様の赦しをいただきましょう」と教えているのです。

 

3:  三つの譬えから

そしてこのことを、後半の39節~42節において、具体的なたとえをもって語るのです。一つ目のたとえは、39にある【「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」】(39)という、たとえとなります。このたとえは当時のことわざとしてあったようで、ここからは「盲人」、「目の見えない方」に対する差別的な言葉が聞こえてくるのです。この言葉は当時の社会における目の見えない方への差別があったことを教えており、聖書もまたそのような文化、時代背景、当時の社会の考え方の中で記されていった言葉であるということを教えるのです。そのようなことを踏まえたうえで・・・、私たちは、この言葉から、「私たちはすべての者が神様の前にあって、自分の歩む道もわからず、暗闇の中にいる者であり、道案内を必要としている。そして同時に、私たちは、だれも、その暗闇から、お互いを光のもとへと導いていくことができない」ということを学びたいと思います。私たち人間には、人生を生きるための道案内が必要なのです。そして、その道案内は、光の道を歩まれている方、イエス・キリストのみがなされる御業なのです。私たちは、このイエス・キリストによる神様の導きを求めていきたいと思うのです。私たちは、このこと、自分が暗闇にいること、先が見えずにいること、自分に道案内が必要だということを忘れてしまい、むしろ、自分が誰かの道案内、導き手となることができるとし、誰かと一緒に、間違った道にそれてしまっているのではないでしょうか。私たちは、神様の導きではなく、自分の導きによって進んでしまうのです。確かに、私たちがお互いを思い、支え合うということは、とても大切なことでしょう。しかしまた、私たちは、お互いに支えあうときに、自分自身の中には、他者を完全に支えるだけの力はないことを覚えておかなければならないのです。私たちが支え合うこと。それはイエス様が私たちのところにきてくださり、私たちの重荷を担ってくださるということを分かち合うこと、イエス様が私たちを支えてくださること、その愛を分かち合うところに、本当の支え合い、励まし、慰め合うことが起こるということを覚え、求めていきたいと思うのです。

二つ目のたとえは、40節にある【「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」】(40)という、たとえです。この当時の、立派な学者や職人となるための道としては、その道の師匠について、そこで修行を積むことでした。その場合、自分が弟子として、どれほど足りない者であるかを、常に認識していることが、大切なことでもあったのです。私たちは、この自分自身の足りなさ、イエス様の弟子とされていながらも、常に、どれほど自分が、足りない者であるかということに目を向けていきたいと思います。ここでは「十分に修行を積めば、師匠のようになれる」とありますが、これは、私たちが努力をすることで、神の子イエス・キリストのようになれるということを表しているのではありません。そうではなく、この言葉は「整えられる」といった受動態の言葉であり、私たちが主体的に、努力や訓練、精進することを意味しているのではなく、神様の前に立ち、神様の愛を受ける者として立つときに、神様がその愛で満たしてくださるということを意味しているのです。

三つ目のたとえは41~42節において語られています。この箇所では、自分の弱さ、その不完全さに目を向けることなく、他人の弱さ、その欠点ばかりを見てしまう者であることが語られているのです。私たちは、なかなか自分の目の中にある丸太、つまり自分の欠点には、気がつかないものなのです。

このことは、旧約聖書に出てくる、有名なイスラエルの王様、ダビデ王も同じでした。神の選び出されたイスラエルの民、その王様であるダビデです。イスラエルが最高に栄えた時の王、神様に祝福された王様、ダビデです。しかし、そのダビデも、自分の間違えを見ることができなかったのです。ダビデ王は、その王という権威の下、自分の部下ウリヤの妻、バト・シェバを奪い取り、あげくの果てには、その夫ウリヤを卑劣な手段で殺してしまったのです。ダビデ王は、自分の部下ウリヤの痛みも、考えず、妻バト・シェバの苦しみも考えず、ただ、自分欲望を満たしたのです。神様は、そのようなダビデ王のところへ預言者ナタンを派遣されたのです。しかし、預言者ナタンが、まともにダビデ王に罪を糾弾しても、王は認めようとしないだろうし、場合によっては、自分が殺されかねないのです。そのため、ナタンは次のように語ったのでありました。

 サムエル記下12:1-7

【「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。『二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに、何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。』」】(サムエル記下12:1-4

預言者ナタンは、ダビデ王に直接「あなたは罪を犯した」と指摘するのではなく、「豊かでなんでも持っている者が、貧しい者の持つ、唯一の小羊を取り上げてしまった」と譬えをもって話したのです。ダビデはこの話を聞いて、・・・その男に激怒し、【『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。』】(サムエル記下12:5-6)と言ったのです。そして、このダビデに対して、ナタンが【「その男はあなただ。」】(サムエル記下12:7)と言ったのでした。

これはまさに、自分の目の中には、丸太のような大きな間違いがあるのに、そのことには気づかず、人の小さな間違いには敏感であるということの、いい例です。預言者ナタンも、そのことをよく知っていて、まずダビデ王の間違いを指摘するのではなく、他の人の間違いの話をしたのでした。自分の間違いについては鈍感な、ダビデ王も、人の間違いには敏感であったのであり「そのような者は死罪だ。」と激怒したのでした。そして、預言者ナタンは、「それは、まさにダビデ王、あなたのことだ」と教えたのです。私たちは、このダビデ王と同じように、自分の中に欠点を持ちながらも、そのことを忘れ、自分は正しいとし、他者の弱さや欠点にばかり目を向けてしまうのです。

聖書は、このような私たちに対して、・・・「何よりもまず、神様の前に立ちなさい。そうすればあなたは自分自身の欠点に目を向けること、自分の不完全さを知るでしょう。そして、同時にまた、そのような不完全な私たちを、そのままで愛してくださっている神様の愛、神様の慈しみを知るでしょう」と教えているのです。

 

4:  神様に招かれている

私たちは不完全な者であり「正しく人を裁く」こともできなければ、「正しく人を罪人だと決める」そのような力もない者なのです。同時に、私たちは赦されており、命を与えられ、愛を受けて生かされているのです。そのような私たちを神様は、「わたしの前に来なさい」と「私の愛を受けなさい」と招かれているのです。私たちが神様の前に立つとき、私たちは本当の意味で、裁かれる、裁いていただけるのです。この世の裁判で、あってはならないことが冤罪でしょう。しかし、私たちが人間である以上、冤罪が100%なくなるということもないでしょう。間違った裁きで裁かれること。それほど苦しいことはないのです。

神様は、間違った裁きではなく、正しい裁きを与えてくださるのです。神様の裁き。それはイエス・キリストを通してなされました。イエス・キリストの十字架を通してなされたのです。本来、暗闇の中にあり、歩む道も見えないでいる私たち。弱さを持ち、不完全な者、しかも、そのことを忘れ、お互いに裁き合い、傷つけあってしまう私たちです。しかし、そのような私たちのために、イエス・キリストが、この世に来てくださった。そして、十字架という痛みをもって、私たちを整え、神様と向き合う道を開いてくださったのです。神様は、このイエス・キリスト、その十字架の死を通して、私たちに「私の前に来なさい」と、そして「私の愛を受けなさい」と語りかけてくださっているのです。

先週は、イースター、イエス・キリストの復活を覚えてお祝いする時でした。神様は、死を越え、新しい命を創造されたのです。この命の神様が、「わたしの前に、来なさい」と、私たちを招いてくださっているのです。私たちは今、神様の前に立ちましょう。自分の中にある、自分の持つ正しさに立つのでもなければ、他者の目、他者の思いを気にするのでもなく、ただただ、私たちを愛してくださっている神様の前に立ちたいと思うのです。この神様の前に立ち、その愛を受ける時、私たちは「裁く者」から「愛する者」へと変えられていきます。そこに新しい命が創造されていくのです。(笠井元)