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2023.4.23 「主にある希望をもって幻を見よう」(全文)  ヨエル書3:1-5

1:  ヨエル書

 今日は、この礼拝の後に定期総会を持ちます。定期総会では今年度の標語、また主題聖句についても話し合いをいたしますが、今日は、その主題聖句の案であるヨエル書3章から共に学んでいきたいと思います。まず、ヨエル書についての説明をしていきたいと思います。以前、松見先生がこのヨエル書から宣教をしてくださったとき、松見先生は預言者ヨエルといえば「イナゴの災害」と言われました。私としては、ヨエルと言えば「イナゴ」というのは、とても印象的であったのでよく覚えています。ヨエル書は紀元前400年頃に記されたとされています。イスラエルは紀元前6世紀にバビロニア帝国によって、国を滅ぼされ、また、多くの人々がバビロニアへと連れられて行かれました。いわゆる「バビロン捕囚」という苦難の出来事があったのです。バビロニア帝国によってエルサレムは破壊され、多くの人々が奴隷として連れていかれたのです。ただ、そのバビロニア帝国も、その後ペルシャによってうち滅ぼされ、イスラエルの人々はこのペルシャの王、キュロス王の政策によって、エルサレムに帰ることが許されたのでした。 イスラエルの人々は、エルサレムに帰り、信仰の象徴とされていた、エルサレム神殿も以前よりもだいぶ小さなものだったとされますが、再建していったのです。このことは少し前の教会学校で、エズラ記・ネヘミヤ記から学びました。

ヨエルといえば「イナゴ」というのは・・・そのような崩壊からの再建の矢先に、大量のイナゴが発生し、イスラエルの人々が大きな苦しみを受けたということです。ヨエルはそのような時代に預言者として働いたのでした。イスラエルの人々は、バビロン捕囚という、苦難があり、信仰の象徴のようなエルサレム神殿も破壊する中で、希望を失っていった。ただ、それでも何とか歩んできて、どうにかこのエルサレムに戻ってきて、再建を始めていた。それなのに、今度は、このエルサレムにおいてイナゴによる苦しみを受けたのです。それは絶望のうちに得た小さな希望。その希望をもって生きていこうとしたときに、もっと大きな絶望に飲み込まれてしまったということです。

 

 私たちが生きるこの世界でも良いこともあれば苦しいこともあります。ここ3年間ほどは、私たちは新型コロナウイルスの感染に苦しんできました。まず、教会という信仰共同体としての中心ともいえる、集まっての礼拝をするということが、多くの教会で、閉ざされました。それが解除されてからも、生活は一変し、マスクに消毒。礼拝では大きな声で賛美すること、礼拝後に一緒に食事をすることもできなくなったのです。朝の祈祷会では祈祷会後に一緒にお茶をするのが一つの楽しみでしたが、それもできなくなりました。また、体調を崩され入院をされた方、施設に入られている方のところに行くこともできなくなりました。それでも少しずつですが、回復に向かってきた、そんなさなかに、昨年ウクライナでの戦争が起こりました。戦争は今も変わることなく続いています。ニュースでは、多くの人々がなく亡くなられていく映像が毎日ように続きました。これは現在も変わることなく続いているのです。

 

新型コロナウイルスの感染についていえば、今年の3月からマスクはそれぞれの判断となり、5月からは、2類から5類、いわゆるインフルエンザなどと同じような扱いとして考えられるようになります。そのように、まだまだすべてが収まったわけではありませんが、少しずつ、光が見えてきたかな・・といったところにあります。ただ、ここでもう一度、違う形で大きな絶望を見るような出来事が起きたとき、私たちはその苦難に立ち向かい越えていくことができるでしょうか。

ヨエルの時代はまさにそのような時。バビロン捕囚からの解放があったにもかかわらず、その後、今度はイナゴの大量発生による苦しみを受けた時代でした。まさに苦しみの中に絶望に陥るような出来事が起きた、そして、そこから何とか光を見ようとしてきた、その時に、再び大きな苦しみが起きたのです。そのような、絶望する人々にヨエルは【わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。】(ヨエル3:1)と語ったのでした。

 

2:  困難の中で、共にいてくださる方

 今年度は、この箇所を主題聖句とするとともに、標語は「主にある希望をもって幻を見よう」としようとしています。ここ2年間は「神の恵みの下に留まる」「共に、神の恵みの下に留まる」として、新型コロナウイルスの感染という大きな苦難の中にあって、ただ神様の恵みに留まり続けること、そのために共に力を合わせ、祈りを合わせていくことを、大切にしてきました。どれほどの苦難の中にあったとしても、それは、私たちが神様から見捨てられたのではない。私たちはこのような時こそ、神様の恵みをしっかりと見つめ、受け取っていくことを大切にしてきたのです。そのうえで、今年からの標語を「主にある希望をもって幻を見よう」としたいと思っています。

私たちは、この新型コロナウイルスの感染という、大きな困難の中を過ごすことによって、このような困難を過ごしてきたからこそ、感じてきたこと、学んだこともあるのです。その一番に、私たちは実体験として、どのような時も神様の護りがあるということ、どのようなことがあったとしても、イエス・キリストが共にいてくださるということ、このことは決して変わることがないということを感じてきたのではないでしょうか。イエス・キリストを中心とした繋がりが、私たちの間にはある。み言葉があり、祈りがある。それは変わることがないのです。これほどの苦しみを受けてきた。隣の人との関わりも断絶され、痛みを分かち合うこともできない。もはや一人ぼっち。誰も隣にいない。誰とも向き合えない。そのような時に、私たちは何を見てきたのでしょうか。この教会では、「共に、神の恵みの下に留まる」として、それでも変わることのない、神様の恵み、そして一緒にいてくださるイエス・キリスト、そして共に祈る兄弟姉妹の祈りによる繋がりを見てきたのです。私たちは、祈り合い、神様の恵みに留まり続けて、ここまで来たのです。

 ここに、私たちは、私たち自身の力を超えた、神様の護りを見るのです。主イエス・キリストの十字架という、神様ご自身の痛みの上になされた、救いの出来事によって、私たちは命を与えられたのです。主イエス・キリストが共にいてくださる。これこそ神様の与えてくださった恵みの出来事です。大きな困難の中、私たちはこの変わることのない神様の恵みの中に生きてきた、そして生きていくのです。だからこそ、私たちは、これから襲い掛かるどれほどの困難があったとしても、主が共にいてくださるということを知っている者として、その恵み、変わることのない神様の愛というしっかりとした土台に立たされているのです。

3:  すべての人にわが霊を注ぐ

ヨエルは語ります。【その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。】(ヨエル3:1)ここでヨエルは、「すべての人にわが霊を注ぐ」と言います。神様は、すべての人にその霊を注いでくださるのです。これは、当時のイスラエル社会においてはとても大きな意味をもつ言葉でした。当時のイスラエル社会において、神様との直接関係を持つことができるのは、預言者や祭司といった選ばれた人たちだけだと考えられていました。エルサレム神殿を中心に、祭司が神様の御言葉を受け取って、人々にその方向性を示していく。これが基本的なイスラエル社会の姿でした。そのような社会に対して、ヨエルは「すべての人」に神様の霊が注がれるというのです。そしてこのすべての人として、最初に「息子や娘」「老人」「若者」が語られました。老人や若者。現代のような超高齢化・少子化社会の中では、高齢者が元気に働き、少ない若者が大切にされるという状態にありますが、当時のイスラエルでは、老人とは力を失った者であり、若者とは知識の足りない未熟者とされていたのです。若者と関わることはきちんと働いていない怠け者といわれていたほどです。ここでは、そのような力ない者、未熟な者、そのような社会の動きにおいては役に立たないとされていた人たちに、神様は霊を注ぐと教えておられるのです。

 

 そして続けて、このように語ります。【その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。】(ヨエル3:2)ここで「奴隷となっている男女」にも、神様は霊を注がれると語るのです。神様の霊が注がれないところはないのです。力ない者、未熟な者、そして奴隷とされ、その存在さえも社会においては認められない者に対しても、神様はその霊を注いでくださる。まさに「すべての人」にその霊を注いでくださっているのです。今、皆さんにも注がれている。皆さん、一人ひとりに神様の霊が注がれているのです。私たちは、この霊を頂いている者として、今ここに生かされているということを覚えたいと思います。

 

4:  限界のない神の霊

神様の霊。創世記において、神様は、人間を造られたときに、土の塵で形作った者に、命の息を吹き込まれましたのです。人間は、神様から吹き込まれた「命の息」によって、生きる者とされたのです。この「命の息」。神様の霊とは、この人間を創造し、命を与えた「息」を意味します。

そして神様の霊は、「風」としても表されます。出エジプト記において、風が、海を開き、イスラエルの人々が救い出されたという記事があります。エジプトにおいて奴隷とされていたイスラエルの民が、そこから逃げ出す中、エジプトの軍隊に追い詰められたのです。その時、神様が風を送ってくださり海を開き、海に道を作ってくださったのでした。つまり困難の中、八方ふさがりの中、もはや歩く道が閉ざされたという中で、神様が「風」をもって、新しい道を開いてくださったのです。神の霊。それはまさにこの風に表されるように、救いの道を開いてくださるのです。

 そして神の霊は、イエス・キリストの十字架と復活のあとに、イエス・キリストが送ってくださった聖霊でもあります。この聖霊を受け、イエス・キリストの弟子たちは、福音を喜び、宣べ伝える者と変えられていきました。

神の霊。それはまさに人間を変える力を持ちます。私たち人間が喜び生きる者と変えてくださるのです。

 神様の霊とは、新しく命を造り出し、困難のなか希望の道を開いてくださり、そして神様の愛を受けとり、伝える者と心を変えてくださる方、そして私たちの生きる道を示してくださる方なのです。

 この神の霊は、どこまでも注がれています。神様の恵みは誰にでも、どこまでも注がれているのです。それなのに、私たちは、どこかで神様の愛に限界をつけてしまっていないでしょうか。自分の力で生きている自分を見るなかで、「これは無理だ」と限界を作ってしまっていないでしょうか。どんなに神様を信じて欲しいと願っても、信じることのない家族や友人、または教会に来ていたのに、離れていった兄弟姉妹を見る時。またはこの社会で生きる中で感じてきた、自己中心でしか生きていない、人間。他者を傷つけることをなんとも思わず、自分が何かを得ることだけを考えている者。その中心にいる政治家。そしてこの世界。他者を傷つけてでも、自分の国のことだけを考える世界。

  私たちは、このような世界で生きる中、傷つき、生きる希望を見失ってしまうことがあります。私たちは、神様の愛にも限界を付け、希望を見失ってしまうことがあるのではないでしょうか。そのような私たちに、そしてすべての人に、神様は、自らの霊を注いでくださっていることを覚えたいと思います。私たちには、新しく命を造り出し、困難の壁に希望の道を作りだし、神様の愛を受け、心を変えてくださる、神の霊が注がれているのです。私たちは絶望することがあります。しかし、だからこそ、そのような時に、私たちは、神様が聖霊を送って下さることに、希望を持ち続けましょう。神様の霊を頂いているから、その希望をもって、夢を見、そして幻を見ていきたいと思います。

 

5: 老人は夢を見、若者は幻を見る

 神様の霊を受け、夢を持っていきましょう。幻を見ていきましょう。私たちが神様の霊から与えられる夢とは、この世界が神様の愛で満たされるという夢です。すべての者が神様の愛を喜び、生きる。これが私たちに与えられている幻でしょう。これが、わたしたちに与えられている、夢であり幻です。昨年度、私たちの教会は、教会組織70周年を迎えました。その中で、信仰の継承のために、皆さんの思いを70周年誌にまとめ、ぶどうの実をつくり、そこでは「これからどのような教会にしていきたいか」「そのために自分に何ができるか」を書きました。本日の礼拝後の定期総会では、この夢、この幻を実現していくために、私たちが教会として、何をしていくことができるのかを話し合うのです。私たちは教会として、神様の霊を受けた者として、夢を見て、幻を見て、その夢、幻を実現していきたいと思います。私たちは、今の自分の限界ではなく、その限界を超えて働いてくださる神様に期待していきたいと思います。そしてその神様の働きを信じて、歩みだしたいと思うのです このバプテスト東福岡教会として、神様に仕え、またお互いに仕え合うために、神様のその御心を求めていきましょう。「御国を来たらせたまえ」と祈り、そしてそのために生きていきましょう。(笠井元)