1: わたしは落胆しない
パウロは「わたしたちは落胆しません」(16)と言います。落胆とは、新改訳では「勇気を失う」、岩波訳では「失望」、NKJでは「lose heart」「心が折れる、がっかりする」となっています。パウロは4章で二度も「落胆しない」と言いますが、パウロは本来ならば落胆してしまうような状況に置かれていたと読み取ることができます。
わたしたちは今、落胆しているでしょうか。勇気を失い、希望を失い、心が折れてしまうような状況に置かれていないでしょうか。
4章7節では人間のことを「土の器」としています。私たち人間は、神様が土の塵に命の息を吹き込み生きる者とされた。だからこそ、心を持ち、感情を持ち、いろいろなことを想像し、時に考えすぎて、不安に縛られてしまうこと、そして落胆してしまうこともあります。そのうえで、ここでパウロは「わたしたちは落胆しない」と言い、その理由がここから語られます。
2: 「外なる人」「内なる人」
パウロは、「見えないものに目を注ぎます」と言います。見えないものとは、「キリストの裁きの座の前に立つ」(10)時、イエス・キリストにより神様とのつながりが完成する時を意味しています。パウロは、いずれ訪れる神様の愛の完成、「見えないもの」「永遠に存続するもの」を見ていたのです。「内なる人」は、日々新たにされるとあるように、キリストとの関係に留まることから、私たち人間は日々新しく造り替えられていくのです。
「外なる人」とは、ただ外面的な肉体を表すのではなく、この世において迫害され、苦しみを受けるこの世での人生を意味し、それに対して「内なる人」とは、ただ心の内や魂を表すのではなく、神様の命の息を吹き入れられ、イエス・キリストにつなげられ、新しい命を受けて生きることを意味しているのです。
【だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。】(Ⅱコリント5:17)
私たちは確かに艱難に出会います。私たちは落胆してしまうことがあります。しかし、そのような艱難は一時的なものであり、重みのある永遠の栄光、イエス・キリストの再臨とは比べものにならないのです。私たちが落胆してしまうような状況は、あくまでも一時的なもの、過ぎ去るものなのです。私たちは、それを超えた救い、永遠の栄光、永遠に存続するものを与えられているのです。
3: 神によって造られた建物
5章1節から、幕屋と建物について、また着物を着ること、脱ぎ捨てることを語ります。ここでは地上の住みかとしての幕屋と、神様が造り備えられた建物について語ります。幕屋とは、一時的な住まい、不安定な場所を意味し、この世での私たちを意味します。
当時コリントの教会では人生の不安定さから、命がいずれ消えて滅んでしまうものであると考えた人々がおり、だから「何をしてもいい」と言う人もいれば、「何をしても意味がない」と、最終的に無力な者として絶望へと向かってしまっていた人もいたのです。
それに対して、1節では【人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか】(1)があると言うのです。ここに神様の救いの備えを見るのです。人間のこの世の人生は、この世の一時的な住まい「幕屋」のようなものであるけれども、私たちには、神様の造られた建物が備えられていることを教えるのです。
4節では、死は命に飲み込まれる、神様の造られた建物、その住みかを上に着たいと言います。ここでは、ただ不安定な人間の人生を脱ぎ捨てて、裸になることによる救いではなく、上から着ることを教えます。私たちは、キリストを着ることによって救いを得ます。私たちは、死をもって私たちに命を与えられたイエス・キリストの十字架が私たちを覆ってくださっているということを覚えたいと思います。
5節で、神様は霊を与えてくださったと言います。神様の保証とは手付金を意味する言葉です。神様は、いずれ与えられる神様の造られた建物に、すでに保証を受けて生きる者として聖霊を送ってくださっているのです。
4: キリストの裁きの座の前に立つ
キリストの裁きの座の前に立つ(10)。この言葉は「良いことをしないと裁かれる」「地獄に落ちる」といった人を脅すための言葉ではないのです。
ただ、当時の教会では、キリストを信じたら何をしてもよいと考える人がおり、また死んだあと、そこで人間のすべては消えてなくなってしまうと考える人もいたのです。キリストによって裁かれるということは、死がすべてを飲み込んでしまい「無」になってしまうということではないということです。死んだ後に裁きがあるということは、死の後における人間の存在を認めた言葉となります。
神様の愛に応えて生きるために、パウロは二つの言い方をしています。一つは、この「キリストの裁きの座の前に立つ」ということ、もう一つは、9節の「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9)とあるように、神様に愛されている者として、その愛にきちんと応えていくということです。
わたしたちはどのようなことがあろうとも、落胆することなく、いずれ神様の造られた建物が備えられているという希望をもって、ただ神様に仕え、喜ばれる者として歩んでいきましょう。(笠井元)