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2023.4.30 「出会う、出会いなおす」(全文)  ヨハネによる福音書20:24-29

1, 本当の自分と出会うために

皆さんは今、何を信じて生きているでしょうか。これが正しいと考え、実行していること、今、大切にしていることはありますか。近年の流行り言葉として、「自分軸」をよく耳にします。自分軸は「自分がどうしたいか、どうありたいのか」「何を信じて生きていけばいいか」を基準に行動することを意味する言葉です。変わりつつある世界で、「自分軸」を持って自由に生きることは、どんなに素晴らしいことだろうと思います。しかし、「自分軸」はすぐに持てるものではなく、人の成長に時間がかかるように、「自分軸」も時間をかけてゆっくりと身につける必要があります。柔軟な心を持っていろんな相手と関わり、様々なことを経験し、知識を身につけていくことも大切でしょう。

今日の説教のタイトルを「出会う、出会いなおす」にしました。周りの人や、知識と「出会う」ということなら分かりますが、なぜ「出会いなおす」必要があるのか、疑問に思う方がいるかもしません。

ここにいらっしゃる皆さんは、10歳の自分、20歳自分、50歳、70歳の自分、発達段階のそれぞれにおいて、出会う自分があるのではないでしょうか。時代や環境、生活スタイル、学ぶことや出会う人が変われば、今までとは違う自分を発見できます。このように「本当の自分」と出会うために、いろんな面と可能性を持つ自分と出会いなおす必要があります。自分や他者、神様、また様々な世界と出会い、出会いなおす中で「本当に大切なものって何だろう」「自分がどうあるべきだろう」「どう生きていけばいいだろう」を問い続けていくのです。

 

2,世界と出会いなおす経験を通して

今年2月の下旬、約一週間、西南学院大学主催の海外ボランティアワークキャンプに大学生と一緒に参加しました。私自身この活動に参加するのは、今回が三回目です。毎回新しいメンバーと参加し、また新しいことを沢山経験するので、毎回新鮮な気持ちで参加させて頂いています。今年の活動地はブラカン州にあるナボタスとマラボンでした。どれも貧富の差の大きい地域です。ネットやテレビのニュースなどを通して、これらの地域の情報を手に入れることができます。しかし直接現地に足を運ぶことは、その世界に、頭から足の先まで、どっぷり浸かるような感じですので、情報だけでは得られないもの、新しい視点と発見を得ることができます。

今回も、一週間という限られた時間の中で、参加者学生一人一人が一生懸命活動に取り組み、出会った現地の方たちと向き合い、また自分の気持ちや感情と誠実に向き合っていました。

スラム街を訪問し、その町を歩いていくと、ごみが散乱した道、薄黒く汚れた川を目の当たりにし、写真では伝わらない臭いをかぎました。プログラムの中に、生活体験という活動がありますが、実際に現地の方々に教わりながら、服などを洗う洗剤を作ったり、台ふきや鍋敷きで使用するためのマサハンを布で塗ったり、男性が生計を立てるための労働として、トライシカッドの運転を体験したりしました。一見、地味で簡単な作業ですが、どれも難しくて手間のかかり、力が要る仕事です。洗剤やマサハンを作った学生は作業後、実際に村に出かけ、村人に呼びかけながら作ったものを販売する手伝いをしました。その地域でしか体験できないことを、周りの方たちと楽しくコミュニケーションを取りながら、笑って過ごした学生たち、その後、現地の経済の状況や、スラム街のリアルな暮らしを聞いて、そこに住む人々の生活の厳しさに衝撃を受けました。マサハン一枚を、2ペソ(日本円4円)という安い値段で売ること、トライシカッド運転手の一日稼いだ賃金は、家族全員を養うのにやっとの金額だということを知った学生は、戸惑いました。しかし一番戸惑ったのは、耳にした状況とは違った人々の様子でした。貧困地域に住んでいるとは思えないぐらいの明るさ、優しさを持つ子ども、大人たち、信仰を持って教会に通い、喜んで神様を賛美し感謝を捧げている信仰者たちと出会った学生たちは、大きなキャップを感じました。「貧困」は決して無視することのできないフィリピンの「課題」の一つではありますが、貧困地域に住む「人々」を勝手に「貧困」「可哀そう」と決めつけることは違うんじゃないかと、現地の方との出会いを通して、気づかされていきました。活動に参加した一人の学生の感想を紹介します。

「私にとっての『豊かさ』は誰かにとっての『貧しさ』で、私にとっての『貧しさ』は誰かにとっての『豊かさ』で、幸せの形や当たり前って人それぞれ違うから、互いを理解し尊重し合うことがどれだけ大切なことか、この一週間で身をもって実感することができました。優しく温かいフィリピンの方々と触れ合う度に、『あれ?貧しさとは?』『私は何をしに来たんやっけ?』と、ハテナとモヤモヤで胸が張り裂けそうになった、そんな毎日でした。私は今回『支援する側』としてフィリピンに行ったけれど、人として大切なことに沢山気付かされ、時には涙が出るくらいに悩み、考え、その度に人の温かさや言葉、笑顔に救われました。子どもたちの屈託の無い笑顔、ずっとずっと忘れません。そしてこの気づきは、私にとってスタートです。私にできることって本当にちっぽけだけど、今回学んだことを強く胸に刻み生きていこうと思います。」

現地の人びとの笑顔や優しさと出会い、「心の豊かさ」「幸せ」って何だろうか真剣に考え始めた学生たち。7日間の活動を経て、ある答えに辿りつきました。「心の豊かさは、助け合いの下で、育まれるということ」、「人々の繋がりこそ、本当の幸せを導いてくれるということ」でした。

 

3,復活のイエスと出会いなおすトマス〜新しい信仰の形を問う〜

今日読んで頂きました聖書の箇所は、十字架で死なれ、葬られたはずのイエス・キリストが復活し、弟子たちの前に現れた場面です。十字架上で無惨な死を遂げたイエス、その苦難を受け入れられない弟子がいました。大切な先生を失ったことで悲しみを抱え、また周りからの攻撃を恐れ、身を隠して生活していた弟子たちの真ん中に、復活のイエス様が現れたのです。たまたまその場に居合わせなかった弟子トマスは、イエスを見たという仲間たちの証言を聞いて、意地を張って言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。その時のトマスの気持ちを想像してみてください。何も見ていないから、信じられないのは、当然のことですよね。でもこれとは別に、彼は他にも色々思うことがあるでしょう。もしイエスが復活したのは本当の話であれば、なぜ他の仲間たちの前に現れたのに、自分のところに現れなかったのかという疑問、嫉妬があったのかもしれません。また弟子たちの中に、今、自分一人しかイエスの復活を見てない、信じていないので、自分はやがて信仰共同体の中で孤立へと向かうということにもなりかねないなど、トマスはいろんなことを思い巡らし、深い孤独感、不安感を抱えていたのかもしれません。しかしイエスはそんな彼のことを放っておけなかった。八日後に、イエスはもう一度現れ、釘で打たれた手と、槍で刺された脇腹をトマスに見せながら、「指をここに当てて、手をこの脇腹に入れなさい」と語りかけました。ああ、やっとこの目で復活したイエス様を見た、その傷に触れた!良かった!嬉しい!とトマスは思ったのでしょうか。いや、そうじゃと思います。彼はその傷跡に触れ、イエスが苦難に遭った時に、何もできなかった自分のちっぽけさ、怖くてその場から逃げ出した自分の惨めさ、目で見て、手で確かめなければ信じないという自分の限界に気付いたのではないでしょうか。悔しくて情けなくて、同時に嬉しくて、全身が震えるくらいの感動を覚えたトマスは、こんなちっぽけの私のために、イエスは死んで生き返ってくださったのだ。「私の主、私の神」と告白したのです。弱くて、孤独を感じるトマスでした。そんな彼のことをイエスは、どれだけ愛していたか。そしてトマスもできる限りを尽くして、復活のイエスに近づこうとしました。その傷跡に実際にこの手で触れました。一番近くでイエスと対話できました。そのような愛のやり取りがあったからこそ、トマスの告白は心に響くものがあるのです。

「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いだ」。イエスのこの言葉は、トマスを責めるものではありません。トマスをはじめ、信仰を持って生きる人々へのチャレンジの言葉だと思います。「信じる」ことができるから良い、悪いというものではありません。実は、1世紀末のヨハネの教会は、生前のイエスや復活のイエスを直接目で見た人が殆どいませんでした。見ないで信じた人たちは大体、イエスと接した弟子たちの言い伝え、すなわちイエスの残した言葉やその生き方に触れて信じたと思われます。

 

4,傷を持って復活された主ーインマヌエル

皆さんはそれぞれ、「信じる」基準が自分の中にあると思います。「信じるに値する」という言葉があるように、値すると自分が感じられれば、信じてみようと思うのです。「教育を受けることは、将来に役立つ」と信じて、学校で学んだりします。自分の悩みを隣のAさんに伝えれば、絶対に受け止めてもらえると信じて、口を開いて話すようになる。明日が来ることを信じて、今日は一生懸命明日の備えをする。イエスの弟子たちだって、神の子と呼ばれるイエスに従えば、政治権力を握った宗教団体を立ち上げ、ローマ帝国の支配から自由にされ、民族復興の夢が実現できると信じていました。生きていくうえで、何か誰かを「信じること」って、すごく単純なことで、また大事なことです。しかしその過程には、色々なことが起こります。イエス様は、弟子たちが思い描いた理想の英雄の姿で、神の真理と救いを示さなかった。その逆の道を歩まれました。貧しくなられ、力を捨て、十字架という残酷な刑罰で殺されてしまいました。なぜでしょうか。「力を捨てることでしか得られない平和がある」、「ご自分の命を犠牲にすることでしか与えられない救いがある」と、イエスさまは、ご自分の生涯を通して、世界の人々に伝えたかったのではないでしょうか。

命を与えられた者として、生きている意味って何でしょうか。どう生きればいいのでしょうか。そんな問いを持ちながら、私たちは生きています。信じる力を持ちながらも、何をどう信じればいいんだろうと迷い、戸惑う時があります。色んな出来事、出会いを経験し、こんなはずじゃなかったと思ったり、考え方や価値観が大きく変わったり、信じていたものが信じられなくなったりして、孤独や不安を覚えたりすることもあるかもしれません。しかし、大丈夫です。弟子たちの前に現れた八日後に、孤独、疑問、挫折の中にいたトマスを放っておけなかったイエス様は、私たちのことを忘れ、私たちのそばから離れるはずがありません。イエス様は、今日も御言葉を持って、私たちに語りかけ、隣人を通して、皆様に近づき愛という尊い贈り物を届けてくださいます。

さて、イエスが復活したと聞いて、皆さんは、どんな体をイメージするでしょうか。何の傷もなく、輝きの姿で生まれ変わるというイメージが大きいのではないでしょうか。しかし、イエス様は、傷跡をもったままの体で復活されました。「あなたの傷ついた体と心、私は一番わかっているよ、あなたの不安、悩み、絶望、私も経験したことがあるよ。だから、大丈夫!私は一生あなたの理解者として、あなたの友人として、家族として、救い主として、あなたと共にいる約束をする。さあ、一緒に生きていこう」と、そう語りかけ、呼びかけくださるイエス。その方は、昨日も今日も、明日も共に生きる神なのです。(劉雯竹)