1: 良い言葉、悪い言葉
イエス様は【悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。】(ルカ6:43)と言われました。ここでいうところの木は、私たち自身のことでしょう。そして実というのは45節から見るならば、私たちの口、心からあふれ出る「言葉」のこと意味するのだと思います。つまり、私たちの言葉は、心の倉、心のうちから出るものであり、それが良い人であれば、良い実がなるように、良い言葉があふれるように出てくる。悪い人でれば、悪い実がなるように、悪い言葉が出てくると言うのです。
皆さんは善い人間、良い言葉を語る者となりたいでしょうか。それとも、周りの人が善い人となり、良い言葉をかけてもらいたいでしょうか。私は、自分でこのことを考えてみたときに、私は、どちらかというと、自分が善い人間となることよりも、善い人に囲まれて、良い言葉、やさしい言葉、励ましの言葉、「大丈夫だよ」「あなたは大切だよ」と言って欲しいと願っているのではないかと思いました。そして、それも悪いことではないでしょう。ただ、社会はそれほど甘くはありませんね。優しい言葉をかけてくださり、「あなたは必要な大切な存在なんだ」と言ってくれる人はあまりないかもしれません。それに対して、厳しい言葉が心につきささることは多くあります。ただ、それでもまだいいものかもしれません。私としては、厳しい言葉も、本来は良い言葉だと思うのです。ただ、一番苦しく、悲しいのは、誰も気にかけてくれないことではないでしょうか。誰も何も言ってくれない。優しい言葉も、厳しい言葉も、何も言ってもらえない。これが一番苦しいことかもしれません。
逆に、自分はどうだろうかと考えたとき、私たちは隣人に対してどのように接しているでしょうか。優しい言葉でも、厳しい言葉でもいいので、何か言葉をかけているでしょうか。挨拶するだけでも、にっこり笑うだけでもいいと思います。言葉は心からあふれ出ます。それこそ、言葉を語らなくても、相手に伝わる思いもあるかもしれません。ただそのためには、その人のことを心に入れて、考えなければならないでしょう。私たちは、お互いに、お互いのことを考えているでしょうか。 良い言葉、善い人とは、そのように、隣の人のことを考えることではないでしょうか。そして本当に善い方、私たちをいつも考えてくださっている方は、イエス・キリストです。良いものとは、何よりも第一に、私たちのことを気にかけてくださっている方、主イエスなのです。このイエス・キリストを心に入れること、心の倉に、神様が私たちと関わり、愛し、共に生きておられるということを受けていくこと、これこそが、良いものを心に入れることなのではないでしょうか。
2: キリストを心に入れる
私たちは、イエス・キリストを心に入れているでしょうか。ルカによる福音書では18章ではこのようなお話があります。【自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」】(ルカ18:9—14)
この話の中で義とされる者。それは正しいことをすることで、高ぶる者ではなく、罪人とされ、後ろ指を指されながらも、へりくだる者とされるのです。良い人。それは、自分で何かをすることではなく、高ぶることなく、悔い改める者です。それは、自分の弱さを認め、「神様、助けて下さい」と祈り求める者なのです。この祈りこそ、イエス・キリストを心に迎えることになるのではないでしょうか。良い実。心から出る良い言葉。それは「主よ憐れんでください」「神様、助けてください」と祈り求める言葉なのです。
Ⅰコリントではこのように語ります。
【ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。】(Ⅰコリント12:3)
「主よ」と求める言葉。「イエス様、助けてください。私の主よ」と願い求める言葉は、聖霊によってなされる言葉なのです。そして、神様は、いつも私たちに聖霊を注いでくださっています。私たちの心には、神様の聖霊があふれるほどに与えられているのです。悪い木、悪い人とは、この神様の注がれている聖霊を、心に受け入れない者。必要としない者です。高慢になり、イエス・キリストという霊を心に受け入れない時、私たちの心は蝕まれて(むしばまれて)しまうのです。私たちは自分の心に蓋をして、神様の送って下さる聖霊を受け入れないようにしてはいないでしょうか。心に蓋をして、聖霊を拒否している者の心の中にあるもの。それは今日の箇所で言えば「茨」であり、「野ばら」となります。それは、ルカによる福音書6章の、ここまでの流れで読み取るならば、27節から語る、「敵を愛することをしない者」、37節からあるように、「お互いを裁き、兄弟を罪人とする偽善者」・・・これが心に蓋をしている者なのです。聖書は、そのような私たちに、「その心の蓋を、もう一度開いて、聖霊を受けましょう。」「イエス・キリストを受けていきましょう」と教えているのです。
3: 信仰義認
46節からは、私たちが「主よ」と求めながらも、その言葉を聞きながらも、その言葉を受けながらも、行わない人について語ります。現在、CSではローマ書から学んでいますが、聖書は、行いによって救いを得るのではなく、信仰によって義とされるということを語ります。いわゆる「信仰義認」です。ただ、そのため、その生き方、行為を考えるときに「何をしても大丈夫」「どのように生きても赦してもらえる」として、自分勝手な生き方をしてしまうことがあります。実際にパウロが異邦人に向けて律法によるのではなく、キリストを信じる信仰によって救いを得ていると福音を宣べ伝える中で、自分たちの好き勝手に生きるようになり、争い、ねたみ、盗み、好色など、間違った行為に陥った人々もいたのです。
神様は、イエス・キリストによって、無条件の愛を私たちに注がれました。この神様の愛は変わることはありません。私たちはすでに、そのままの姿で受け入れられ、神様の愛を得る者とされているのです。そして、だからこそ、私たちは神様の愛に応答していきたい。神様が私たちを愛してくださっている、その愛を受けて生きる者と変えられていきたいのです。
私たちは「そのままの姿」で受け入れられた者として、「そのままではなく、変えられたい。生き方を変えていきたい」と思う。そして変えられていくことこそ、救いを実生活で受け取っていることになるのでしょう。だからこそ、「主よ」と願い求め、何ができても、できなくても、「神様」と向き合って、「助けて下さい」と願い求めていきたいと思います。
4: 嵐がきたときに
イエス様は、家を建てたところに嵐が来ることを教えます。ここでは二人の人が出てきます。一人は岩の上に土台を置いた人、もう一人は土台なしで家を建てた人です。この二人は、どちらも家を建てています。つまり、どちらにも神様の愛は注がれている。イエス・キリストは心に来てくださる。神様はどのような人にも、神の愛・イエス・キリストという恵みの家を備えてくださるのです。
そしてまた、どちらにも「嵐」は来るのです。私たちが生きるこの世には、必ず、「洪水」「嵐」といった困難がやってきます。小さい嵐、大きい嵐、様々ですが、私たちはいろいろな壁にぶつかり、生きる希望を見失うことがあります。ここで二人の人は、どちらも「家」を建てています。神様の恵みを頂いているのです。しかし、嵐がきたときに、一人の家は、びくともしなかったけれど、もう一人の家は、壊れてしまったのです。一人は地面を深く掘り下げ、土台を作っていました。土台を置いて、深く掘り下げるということ。それは、イエス・キリストを心に迎え、その言葉を真剣に聞き、どのように生きるかを考え、生きた者を意味します。
イエス・キリストが来てくださっている。イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。この関係に生きている時、私たちは決して孤独になることはなく、一人で頑張らなければならないということにはならないのです。「大丈夫」、「わたしが共にいる」「あなたを愛している」という言葉を心に頂くことができるのです。わたしたちは、この土台をいただき、そしてその言葉を聞いて生きていきたいと思うのです。れは、私たちが、このイエス・キリストの言葉を心に入れて、心から出していくことになります。
嵐の時、私たちは、このイエス・キリストを心から出していきたいと思うのです。それは、イエス・キリストによる恵みを分かち合うということです。苦しい時、私たちには、イエス・キリストが来てくださっています。だからこそ、困難の時、私たちは隣人のために、このイエス・キリストによる恵みを分かち合い、歩んでいきたいと思うのです。そのために、イエス・キリストは私たちの中に来てくださっているのです。キリストの愛を、共に喜び、共に分かち合い、支え合い、励まし合い、そして共に希望をもって生きる。そのためにイエス・キリストがきてくださったのです。
私たちは、困難の時こそ、キリストの言葉を心に頂いている者として、何ができるか、共に考えていきましょう。共に、考え、共に生きていく。そのような道を選びとっていきたいと思います。キリストは、私たちと共に生きてくださっていました。私たちは誰と生きるのか考えましょう。私たちは一人で生きるのではないのです。私たちは自分の心にイエス・キリストを閉じ込めるのではなく、共にイエス・キリストの恵みを分かち合い、生きていきましょう。(笠井元)