1: 神を畏れる
神を畏れることは「知恵の初め」です。神を畏れることは、神様を知り、神様の存在を受け入れること、神の国、神様の愛の支配の状態を求めていくこと、そして終末を畏れ、待ち望むことです。
コリントの教会にはパウロを批判する人たちがおり、そのような人々が、パウロは自分の支配欲や権威欲からコリントの教会の人々に語っているとしたのです。それに対して、パウロは、「自分は、自分の勝手な欲のためではなく、神を畏れ、終末を待ち望む者として、福音伝道をしている」と言います。
支配欲は、自分が正しい者だと思うことであり、裁く者となることにもつながります。パウロは、もともとキリスト者を迫害する立場にあり、自分の正しさで人々を裁いていたのです。そのようなパウロがキリストに出会い、神様を畏れる者と変えられたのです。パウロは、自分の弱さ、自分の限界、自分の無力さを知ったのです。神様を畏れるということは、そのように自分の不完全さを知り、神様の完全さを知ることなのです。
2: 神のために正気ではなく、あなたがたのために正気であった
パウロたちは神様を畏れる者として生きる時、人々からは「正気ではない」とされることがありました。この世の価値基準からすれば、自分の命を危険にさらしてまでも、福音を宣べ伝えるという行為は「正気」にはみえないことだったのでしょう。神様を中心にすること、福音伝道とはそういうものでしょう。ただ、世間一般から見て「正気ではない」という行為だけをしなければならないとなると、それはカルト宗教と変わらないのです。パウロは同時に【正気であるなら、それはあなたがたのためです】(5:13)と言うのです。神を畏れ、隣人を愛する。私たちは他者から「正気ではない」とも「正気である」とも思われる。その中心は、神様を畏れて生きるという思いがあるのです。
3: キリストの愛が私たちを駆り立てている
14節で【キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。】(14)と言います。口語訳では【キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。】(14)、新改訳では【キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。】(14)、岩波訳では【キリストの愛が、〔次のように〕判断している私たちを、しっかりと捕えている】、他にも、キリストの愛が「支配」し「圧倒」しているという訳もあります。パウロは、キリストの愛に支配され、捕えられ、駆り立てられる中で福音伝道への道を選び取ったのです。
【実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。】(ローマ5:6-8)
キリストはすべての人が、神様の愛に包まれて生きるために、十字架で死に、復活されたのです。私たちは誰のために、何のために生きているのでしょうか。私たちはキリストの愛を受けた者として、どのように生きるべきか、日々考えていきたいと思います。
4: 神による和解 新しい心の創造
16節から神と人間の和解について語られます。神様との和解の出来事を見る時、まず、この出来事の主体が「神」であることを見たいと思います。18節から、「神は」「神が」として語られています。神様との和解の出来事は、私たちの行為によるのではなく、ただ神様の御業としてなされたのです。神様は、罪とは何のかかわりもない方イエス・キリストを、私たちのために罪となされ、そのことによって、私たちは神の義を得ることができたのです。(21)
P.ティリッヒは罪についてこのように言いました。「罪とは、私たちがそこから生まれ、またそこへ戻っていくところの神の根拠に参与することから顔をそむけるという行いにあたるのです。罪とは、私たち自身に顔をむけ、私たち自身をこの世界の、そして私たちの中心的存在とみなすことにあるのです。」(『永遠の今』p.59)
私たちは自分中心に生きることを求めます。それが自分の幸せだと思っているのです。このような神様から目を背ける人間のために、神様がキリストを送ってくださったのです。【だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。】(Ⅱコリント5:17)神様は、私たちの内に、新しい心を創造するためにキリストを送ってくださったのです。
5: 神と和解し、隣人と和解する者とされる
神様は「わたし」ではなく「わたしたち」と和解されたのです。私たちには、「和解のために奉仕する任務」が与えられ、「和解の言葉をゆだねられた」のです。私たちの歩む道はここにあるのでしょう。イエス・キリストは、この世のすべての人々のために、死んでよみがえられ、和解の出来事を完成されたのです。私たちは、お互いがイエス・キリストによって、神様と和解された者として、イエス・キリストに繋がる者として、お互いに向き合っていきたいと思うのです。(エフェソ2:14-22)私たちは、キリストを通して神様と和解された者であり、このイエス・キリストを心の中心において、共に生きていきたいと思います。(笠井元)