1: 主人公はイエス様
今日の箇所は、百人隊長の部下が重い病気になり、死にそうになっていたため、百人隊長が、イエス様に癒しをお願いし、部下を癒して頂くというお話となります。その中でも、ここでは、この百人隊長のユダヤの人々に対するこれまでの働きや、百人隊長のイエス様への態度・・・特に、「その言葉さえいただければ、部下は癒される」という信仰が強調されるのです。そういう意味で、ここでは、百人隊長の信仰深さが中心に見えてくるのです。ただ、しかし、ここでの主人公は、百人隊長ではなくイエス様です。そしてここでの中心メッセージは、この百人隊長の信仰深さではなく、今日の箇所で、一番に伝えられていることは、イエス・キリストの御言葉の力、その恵みの偉大さです。
聖書の一番最初、創世記にはこのような言葉があります。【1:1 初めに、神は天地を創造された。1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。】(創世記1:1)
神様が「光あれ」と言われた。そこに光が生まれたのです。神様が意志と決意をもって語られたその「御言葉」によって、そこに新しい光が造り出されたのです。同じように、神の子、イエス・キリストの御言葉は命を生み出す力を持つ。今日の箇所でいえば、イエス・キリストは御言葉によって、病からの解放、新しい命に生きる力を与えられたのです。このイエス・キリスト、その御言葉の力こそ、今日の一番のメッセージです。私たちは、このキリストの御言葉を共に頂いていきたいと思うのです。
2: 想像を超えた執り成しの祈り
この一番の中心がイエス・キリストの御言葉であるということを前提に、今日は、まず百人隊長の姿を見ていきたいと思います。イエス様はカファルナウムに来られました。イエス様は、ルカによる福音書4章31節からの箇所でも、このカファルナウムに来られています。そのときには、イエス様は、シモン・ペトロのしゅうとめの病を癒され、また、悪霊からの解放、病の癒しを行われたのでした。そして、ルカ4章37節では、【こうして、イエスのうわさは辺り一帯に広まった】(ルカ4:37)と記されているのです。今日の箇所に登場します、百人隊長もまた、このイエス様の癒しの業の噂を聞いていたのでしょう。百人隊長は自らの部下が病気にかかり、死にそうになったなか、イエス様に癒しを求めたのでした。
百人隊長は、自らの部下の癒しを求める中で、まず自分で出かけていくのではなく、ここではユダヤ人の長老たちを使いに出したのでした。マタイによる福音書では、自らがイエス様に近づき、懇願したとあります。しかし、このルカによる福音書では、この百人隊長は、自分でお願いをしに行くのではなく、ユダヤの長老たちに、お願いしてもらうようにしたのでした。もともとここで求められているのは、この百人隊長の癒しではなく、その部下の癒しです。その時点で、すでに一つの執り成し、心のつながりがあります。百人隊長が、部下の一人を大切に思い、どうにかしたいと考え、その人のために、働きだしたのです。
そのうえ、百人隊長はこの部下の癒しを、自分でお願いするのではなく、ユダヤの長老たちを通して、イエス様にお願いしたのです。ここに、もう一つの執り成し、心のつながりがあったのです。もう一つ、つなげるならば、この後、百人隊長の求めに応えられ、歩き出されたイエス様のところに、今度は百人隊長の「友だち」が来て、「御足労には及びません。ただひとこと言葉をください」と伝えたのです。そのような意味では、ここでは、いくつもの執り成しと心のつながりによって、この部下の癒しがなされていったことを見ることができるのです。ここに、お互いの心のつながり、執り成しの祈りの尊さを見ることができるのです。このとき、百人隊長の部下は、この繋がりをどれほど知っていたのでしょうか。
自分の上司である隊長が自分のために働いてくれているということぐらいまでは知っていたかもしれません。それでも、そのために、ユダヤの長老たちが異邦人である自分のために働いていること、または百人隊長の友人、そしてイエス様が働いてくださっていると想像できたでしょうか。このことは、私たちも、私たちの想像を超えて祈られていることを教えられるのです。私たちは、私たちのため、どれだけの人々が祈ってくれているのか、どれだけの人々の執り成しの祈りによって、そしてその働きによって、生かされているのか・・・そのすべてを知っているわけではないのです。そしてまた、それは、私たちには、知ることはできないほどの多くの人々の祈りに支えられているということなのです。私たちは、想像を超えた人々に祈られていることを覚えたいと思います。
3: キリストに求める
ここで、ユダヤの長老たちが百人隊長のためにイエス様のもとにやってきたのです。百人隊長は、ユダヤ人ではなく、いわゆる異邦人とされる者でした。このような異邦人のために、ユダヤの長老たちが癒しを求め行動するということは、とても珍しいことです。もともと、ユダヤ人は、自分たちが神様から救いを与えられた民であり、特別に選ばれた民であると強く思っており、律法では異邦人と関わること自体が禁止されていたのでもあります。そのようなユダヤの民が、異邦人である百人隊長の、しかもその部下のために癒しを求め、動き出したのです。4節からこのようにあります。【 7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」】(ルカ4-5)。ユダヤの長老たちは「熱心に」、そして「この百人隊長は、そうしていただくのにふさわしい方です」として、癒しを求めたのでした。 ここに、この百人隊長の人となりを見ることができるのです。
百人隊長は、ユダヤ人という自分とは違う民族、しかも当時はローマ帝国に支配されている小さな群れであるユダヤの民を大切にしたのです。ユダヤ人を愛し、その人々のために、自分の財産を用いて会堂を建てたほどでした。ここから、この百人隊長が、その周りで苦しむ小さな者、弱い者を大切にする者であったということを見ることができるのです。ユダヤの長老は、この百人隊長のために、熱心に癒しを求めたのでした。
この百人隊長は6節からこのように言いました。【7:6 「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」】(ルカ6-7)ユダヤの長老たちは、この百人隊長は、癒しの恵みを頂くのに「ふさわしい者」と言いました。それに対して、本人の百人隊長は「自分はお伺いするのさえふさわしくない」と言ったのです。ここに、この百人隊長の謙虚さを見ることができるのです。百人隊長は、自らの部下の死にそうな姿を前にしながらも、イエス様に「自分はお伺いすることさえもふさわしくない」とし、「ただ一言おっしゃってください」。「それだけで十分です」といったのでした。
私たちは、この百人隊長の姿から、自分が苦しみに陥る時に、どのように行動するべきかを考えさせられるのです。まずは、ただただ救いの御子、イエス・キリストに求めることです。イエス・キリストが癒して下さることを信じて求めるということです。少し前の祈祷会では、絶望の中、すべてが失われた時にこそ、諦めるのではなく、神様の救いを求め祈りなさいということを学びました。私たちの力ではどうすることもできない時、八方ふさがりの時、私たちは、絶望していきます。そのような時、私たちは生きることが苦しく、立ち上がる気力さえも持つことができなくなります。しかし、聖書は、そのような時にこそ、神様の御業が起こされていくということ、しかもそれは、私たちの思いも、想像も超えて、無から有を造り出す方、闇に光を創造される方が働いてくださるということを信じて、求めていきたいと思うのです。自分ではもうどうすることもできないとなったとき、自分の弱さを知り、その限界を突き付けられる中で、私たちは、ただただ神様に、イエス・キリストに、救いを求めたいと思うのです。私たちが求める時、神様は、命を与えてくださり、生きる道を整えてくださるのです。
4: 歩みだされた方
イエス様は、ユダヤの長老たちから、この百人隊長の求めを受けて、その人たちと一緒に出掛けられたのです。イエス様は、この求めに応えられた。歩き出されたのでした。ここにイエス様の姿があるのです。イエス様は、その者が異邦人であろうが、見たこともない者であろうが、そこに「助けて欲しい」という求めがあれば、その求めに歩き出してくださる。これが、私たち主イエス・キリストなのです。そして、このイエス・キリストの姿を通して、神様の愛、その救いが表されているのです。神様の救い。それは、イエス・キリストを通して私たちに与えられました。ここでは、百人隊長の求めに対して歩き出したイエス様ですが、このイエス様の歩き出した道、それは十字架に続く道でもありました。
イエス・キリストは、一人の人、しかもここで言えば、民族も違い、しかもその一人の人の、その部下のために歩き出されたのです。それと同じように、イエス・キリストは、私たち一人ひとりのために、歩き出してくださるのです。イエス・キリストは、皆さん、「あなた」のために、十字架へと歩き続けてくださった。ここに神様の愛が示されたのです。
この歩き出したイエス様のことを知った百人隊長は、その時点で、イエス様の愛を知り、そしてそこに神様の愛を見たのでしょう。そして、だからこそ、この後に「もはや来る必要はない」と「ただ一言御言葉をください」と言えたのだと思うのです。私たちは、この神様の御業を信じて、救いを求めていきたいと思うのです。このあと百人隊長の部下は「癒し」を与えられます。「癒し」ということ、それはもちろん病からの解放があり、元気になったということでしょう。
そして同時に、それは、闇に向かう中から引き上げられていくこと、生きる道を見失った者が、生きる道を与えられたことでもあるのです。
神様は、私たちが、道を見失い、生きる希望を見失う時、必ずその姿を見て、癒しの御手を差し伸べてくださるのです。苦しみの中、困難の中、真っ暗闇の中でどうすることもできないと思う者を、そこから引き上げてくださる。それこそ、イエス・キリストが、自らが、十字架という苦しみに歩まれたことによって、すでに、私たちは、暗闇に差し込む光を見ているのです。神様の癒し、救いの御業。私たちは、この神様の救いを、その御言葉から受けていきたいと思うのです。
5: 力ある御言葉
イエス様が歩き出した時、百人隊長は、そこに救いを受けたのです。だからこそ6節からこのように言うのです。【7:6「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」】(7:6-8)
百人隊長は、この歩き出されたイエス・キリストの中に神様の愛を受けたのです。そしてもはや来る必要はない。「ただ一言ください」と言ったのでした。この者はローマ帝国という権力の下に生きていました。そしてだからこそ、そのような人間の造り出した小さな権力ではなく、一人の人間を愛し、一人の人間のために働かれる方、それこそ、真実の愛である方に、すべてを越える権威があることを確信したのでしょう。それならば、その権威のもとに、一言、言って下されば、苦しみからの解放、闇に光を与えてくださると確信したのでしょう。
私たちもまた、御言葉を頂くときに、このような信頼を持って、頂いていきたいと思うのです。イエス・キリストが、私たちのために命をかけて働いてくださっている。だからこそ、その御言葉には力がある。その御言葉は、ただの言葉ではなく、そこにイエス・キリストの命がある。神様の御言葉とは、まさにキリストの命の言葉、キリストの御業、そしてキリストのものであるのです。
私たちは、この確信のもと、神様の御言葉を求めていきましょう。信じて、信頼して、神様に目を向けていきたいと思うのです。神様は、この求めに、必ず応えて働いてくださるのです。(笠井元)