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2023.6.4 「死の内まで歩み寄ってきてくださる方」(全文)  ルカによる福音書7:11-17

1: 突きつけられた厳しい現実

 聖書にはイエス様の歩まれた道を記している、福音書が4つ、マルコによる福音書、マタイによる福音書、ルカによる福音書、そして、ヨハネによる福音書とあります。その中でも、マルコ、マタイ、ルカの三つは、共観福音書とされ、マルコがまず記され、そのマルコによる福音書と、また別の資料を合わせてマタイによる福音書と、ルカによる福音書が記されたとされています。そのため、それぞれを見比べて、その違いから、それぞれが伝えたいイエス様の姿、福音を見ていくことができるとされています。その中でも、今日の箇所は、福音書の中でも、マルコ、マタイには記されておらず、ルカによる福音書にしか記されていない箇所となります。つまり、一つの理解としては、ルカが特に伝えたかったイエス様の姿として見ることができるのです。今日は、そのような記事である、イエス様の奇跡の業を見ていきたいと思います。

 

 宗教改革者であるルターは、この箇所から何度も説教をしたとされ、その説教の中で、このように言っているのです。「われわれが既に死んだとしても、この方(イエス・キリスト)が、死からの救い手なのだということがここに書かれている。われわれは、すべて死に向う道を歩いている。そのわれわれ自身の前に、周りに、後ろに、この方のお姿を見る。われわれすべてと共に死への道を歩まれる方を見る。このことをしっかりと見、捕らえなければならない」ルターは、私たち人間はすべての者が、死に向かい歩んでおり、そこから逃れることはできない。しかし、その私たちと共に歩んでおられる方としてイエス・キリストがいてくださるということを、この箇所から見ることが出来ると教えているのです。私たちは、今日の箇所から、死の中までも、私たちと共に歩まれる主イエス・キリスト、その救いの御業を見るのです。

 私たち人間は、基本的には、長寿であることを神様の祝福と考えるものです。時々「太く短く」といった生き方を望まれる方もおられるかもしれませんが、基本は長く生きることを求めています。そして、最近は医療の発達から、多くの人が長生きすることができるようになったため、それに合わせて、ただ生きているのではなく、健康であること、健康年齢が長くされ、色々なことができ続けることも求めているのです。

2000年前、ユダヤの社会でも、長生きすることは、神様の祝福だと考えていました。そしてだからこそ、逆に病気になること、本来の寿命と考えられる年齢までいかずに死を迎えることを、罪に対する神様の罰と考えてもいたのです。そのような考えの中にあるユダヤの社会の中で、今日の箇所に登場する、このナインに住む一人の女性に、とても悲しく、そして厳しい現実が突き付けられたのです。「やもめ」ということですから、すでに夫が召された女性となります。そして、夫に死なれたやもめが、今度は、息子にも先立たれたのです。夫を失った妻。父親を失った息子。その二人でこれまでどうにか力を合わせ、心を合わせて生きてきたのでしょう。しかし、やもめは、今度はその息子を失ったのです。息子は、やもめにとっては、ただ一つの心の支えであったでしょう。それはただ心だけではなく、実際に現実として一人の働き手であっただろう息子が死んでしまったのでもあります。これからどのように生きていけばいいのだろう。生活をしていくと言う意味でも非常に厳しい状況に置かれたということになるのです。

2: 寄り添う限界

先ほど、言いましたが、このように、本来、営まれるはずの命が失われることは、ユダヤの社会では、罪に対する神様の罰と考えられるものとされていました。ただここでは、このやもめが罪人として差別され、厳しい目で見られたとはあまり考えられないのです。ユダヤの教え、律法は様々なところで、「寡婦」「やもめ」の権利を守るように教えているのです。申命記にはこのようにあります。【10:17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。】(申命記10:17-18)そのほかにも旧約聖書の多くの箇所で、「孤児」「寡婦」そして「寄留者」の権利を守るように教えます。

そして今日の箇所12節では、【7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。】(ルカ7:12)とあり、町の多くの人々が、このやもめ、母親のそばに付き添っていたことが記されているのです。

 

 この町の多くの人々は、この女性のそばに付き添っていたのです。この時、この女性に付き添うこの町の人々は、たぶんですが、これまでも神様が教えるように、この女性、そしてその息子を大切にし、どうにか助けたいという思いを持ち、そばで助け、付き添ってきたのでしょう。ここから、私たちは、このように、悲しむ者のそばにいることの大切さを教えられるのです。この町の人々は、この女性のそばで助け合い、生きようとした。そしてその思いを分け合い、共に生きる道を選んでいたのです。しかし、ここでこの町の人々ができたのは、そばで付き添うということまででした。 この町の人々には、命を分け合うことはできなかったのです。この時、この町の人々が、何か言葉をかけた姿はありません。人々は言葉を失っていたのではないでしょうか。町の人々は、困っているこの女性や息子を支えてきました。しかし、この息子の死をどうにかすることはできなかった。このことには、もはや何も語り掛けることはできない。この悲しみを、どうすることもできない。このとき、町の人々は、そのような人間の限界に立たされているのです。これが人間が死と向き合うときの限界なのです。

 

 この女性の、最大の悲しみは、生活的困窮でも、社会的立場でもなく、一番の悲しみとして、すべてを飲み込む、死という現実に直面させられたことです。この死という現実・・・確かに人間は生まれ、そしていずれ死を迎えます。それは誰も変わることはありません。これまで多くの人間が、死に逆らおうとし、不老不死を求めてきました。自分の不老不死のために、多くの人々の命を奪っていった人もいるのです。しかし、何をしようとも、死に逆らうことは人間には不可能だったのです。そのような意味で、私たち人間には限界があることを、死は、はっきりと教えるのでもあります。それはまた、たとえ、今日の箇所において、生き返ったとされる息子でさえも、また、やがて死を迎えることとなったでしょう。私たちは、この死という現実を前にしたとき、人間としての限界を突き付けられます。そこで希望を失い、道を見失ってしまうこともあります。死はすべてを飲み込むかのように、襲い掛かり、私たちを真っ暗闇へと突き落としていくのであります。

 

 

3: 死のうちまで寄り添われる方

そのなかで、私たちが、今日の箇所から見ていきたい、主の福音は、単に、生がもう一度与えられたという奇跡ではなく、そのことを通して与えられている、イエス様の憐れみによる救いに目を向けていきたいと思うのです。このナインの女性が泣き崩れる中で、イエス様は、この女性を憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われました。

 イエス様はこの女性を憐れに思われた。この「憐れに思う」という言葉は、いわゆる「断腸の思い」という意味の言葉で、共観福音書では、イエス様についてのみ用いられる言葉となり、この思いは神様の愛を体現する者の心を表す言葉として用いられているのです。それはまさに、憐れに思う、イエス・キリストの心の動き、感情だけではなく、そこには肉体が引き裂かれるような苦痛を伴う思いだということです。イエス様はこの女性を「憐れに思われた」。自分の心と体が引き裂かれそうなほどの痛みを受け、それほどの苦痛をもって、この女性に言葉を語られたのです。

 

 この箇所は、この前の箇所、百人隊長の部下が癒されたところに続く、イエス様の奇跡の業を記しています。この二つにはそれぞれ違いがありますが、大きな違いが一つあります。それは、百人隊長は、自分からイエス様に癒しを求めたのに対して、このやもめは、何もしていないということです。むしろ何もできなかった。何かをできるほどの気力もなかったのでしょう。この女性はイエス様に奇跡を求めたのでもなければ、神様にお祈りしたわけでもありません。今日の箇所は、ただ、イエス・キリストが自らこの女性の痛みに歩み寄られた場面となるのです。そこには、この女性の求めも、祈りも、信仰も問われていない。ただただ、イエス・キリストが死に直面し、立ち尽くす女性に寄り添ってくださったのです。イエス様は、「もう泣かなくともよい」と言われ、この棺に手を触れられました。律法では、死体には触れてはならないという掟がありますが、イエス様が隣の者を愛する思いには、そのような掟は関係ありません。イエス・キリストは、このとき、全身全霊をもって、この女性の痛みに向き合われていました。そのイエス・キリストの思いを止めることは誰にもできません。イエス・キリストは誰も言葉をかけることのできない中、イエス様ご自身が痛み、苦しみを受け、自分のすべてをかけて、この女性に「もう泣かなくともよい」と言われ、その棺に手を触れられたのです。

 これが神様がイエス・キリストを通して私たちに与えてくださっている愛です。キリストはただ一方的に来てくださっている。私たちが何かをしたからではなく、ただただ神様が私たちを愛して、その隣へと来てくださっている。痛み、嘆き、苦しむ者の隣に、そのすべてをかけてイエス・キリストは来てくださる。それがイエス・キリストの受けられた十字架という出来事なのです。イエス・キリストは、神の御子でありながらも、その場にいることを望むのではなく、私たち、苦しむ者の隣にまで降りてきてくださったのです。そして、イエス・キリストは、十字架の死、苦しみ、嘆きにいたるまで、自分を無にして、私たちのところにきてくださったのです。人間の誰も超えることのできない、死に向き合い、死を分かち合う者となるために、その痛みを完全に共に担う者となるために、自らへりくだり、私たちの隣へと歩み寄ってきてくださったのです。

ここに神の愛が示されたのです。

 

 

 

4: 復活 死に打ち勝たれた

イエス・キリストは、死に歩み寄り、死を共に受ける者となられました。そして、イエス・キリストは、この死に留まるのではなく、その死からの解放を与えてくださる者となられたのです。

 聖書はこのように言うのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。】(Ⅰコリント15:54b-56)イエス・キリストは、死に打ち勝たれました。キリストは十字架で死なれました。しかし、その後、三日後に甦らされたのです。それは、死が人間の命のすべてを飲み込みことではないことを示されます。わたしたち人間は、すべての者が必ず、死を迎えます。しかし、それは絶望ではないのです。イエス・キリストは死に至るまで歩まれました。そしてそこから復活されたのです。イエス・キリストは、死にて死に勝ち、新しい命を創造されたのです。復活。それは、死が死で終わるのではなく、そこから、新しく生きる力をくださる出来事なのです。

 ここで言えば、誰も声もかけられなかった中、イエス・キリストは「もう泣かなくとも良い」と言葉をかけられました。どうすることもできない、心の痛みにイエス・キリストは寄り添い、言葉をくださる。死の内にまできてくださり、すべてを共に背負い、そこから、もう一度、今度は、イエス・キリストと共に生きる道を与えてくださるのです。これがキリストの復活。そしてその復活によって、私たちに与えられている生きる力。生きる勇気、生きる希望なのです。

 

5: 神が顧みてくださった

 このイエス・キリストの御業を見て、人々は驚き、「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民を心にかけてくださった」(7:16)と、神様を賛美したのです。神はその民を心にかけてくださった」という言葉は、別の訳では、「神はその民を顧みてくださった」と訳されています。原文の意味では「神は、民を訪れられた」という意味とされますが、まさに、神様は、このイエス・キリストを通して、私たちを愛し、私たちのその隣まできてくださり、全身全霊をもって顧みてくださったのです。

今、困難や苦難の中、生きている者。生きていながらも、死に飲み込まれ、暗闇の中にあるような者。イエス・キリストは、そのような者の所に来てくださいます。そして、新しい道を切り開いてくださるのです。私たちは苦しみの時、このイエス・キリストの十字架と復活の出来事を、もう一度思い起こしていきたいと思います。神様が、顧みてくださっている。どれほどの痛みであったとしても、その命をかけて、私たちに寄り添い、そして生きる希望を与えてくださる。私たちは、このキリストの愛を受けていきましょう。(笠井元)