1: 突き付けられた厳しい現実
ナインに住む一人の女性に厳しい現実が突き付けられました。夫が召されても、母親と息子と二人でどうにか力を合わせて生きてきました。しかし、今度はその息子が召されたのです。このやもめにとっては、ただ一つの心の支えであった息子が死んでしまったのです。これほど厳しい状況があるでしょうか。
2: 寄り添う限界
ユダヤの教え、律法は様々なところで、「寡婦」「やもめ」の権利を守るように教えています。また12節では、町の多くの人々がこのやもめのそばに付き添っていたことが記されています。町の人々は神様が教えるように、夫を亡くした女性、息子を大切に助けてきたのでしょう。しかし、この町の人々ができたのは、そばで付き添うということまででした。この町の人々は息子の死をどうにかすることはできなかったのです。私たち人間には限界があることを、死は、はっきりと教えます。
3: 死のうちまで寄り添われる方
イエス様はこの女性を憐れに思われました。イエス様は自分の心と体が引き裂かれそうなほどの痛みを受け、この女性に言葉を掛けられたのです。この女性はイエス様に奇跡を求めたのでもなければ、神様にお祈りしたわけでもありません。ただ、イエス・キリストが自らこの女性の痛みに歩み寄られたのです。イエス・キリストは、十字架で死に、自分を無にしてまで、私たちのところにきてくださったのです。人間の誰も超えることのできない、死を分かち合う者となるために、その痛みを完全に共に担う者となるために、自らへりくだり十字架の上で死なれたのです。
4: 復活 死に打ち勝たれた
イエス・キリストは死を共に受ける者となられました。そして、そのイエス・キリストが死に打ち勝たれたのです。キリストは十字架で死なれました。しかし、その後、三日後に甦らされたのです。イエス・キリストは復活されたのです。すべてを共に背負い、そこから、もう一度、今度は、イエス・キリストと共に生きる道を与えてくださるのです。このキリストの復活によって、私たちに生きる力、勇気、希望が与えられているのです。
5: 神が顧みてくださった
「神はその民を心にかけてくださった」という言葉は、別の訳では、「神はその民を顧みてくださった」と訳されています。原文の意味では「神は、民を訪れられた」という意味とされます。神様は、イエス・キリストを通して私たちを顧みてくださったのです。(笠井元)