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2023.6.11 「愛と性生活の脆さとその保護」(全文)  出エジプト記20:1-2、14

今朝は、いわゆるモーセの十戒の七番目の戒め:「あなたは姦淫してはならない」に耳を傾けてみましょう。ある教会でこのような説教をしましたら、かなり重い知的障害の小学校低学年の女の子が小学校のクラスで突然「姦淫するな」と叫んだので困ったと親から言われたことがありました。「姦淫する」(ナーアプ)という言葉は、結婚している男女がその配偶者以外の、他の結婚している異性と性的交渉をする場合に用いられています。それゆえ、この戒めは当時、社会の基本的単位である、結婚生活、そして家族あるいは家庭を大切にせよとの戒めです。21世紀に生きる私たちは、この戒めを福音として、つまり、自由と平等、喜びへの解放の戒めとしてどのように聞きとるのでしょうか。一方で、人間の性生活を暗い下半身のことがらとして、敵視したりすることからも無縁で、他方、神が定めた自然秩序という名のもとに、結婚制度を絶対化して、単身で生きる人の祝福を軽んじ、また、女性を自らの所有物・僕のように扱い、夫婦関係の破綻の責任を女性のみに負わせることとも無縁で、この戒めをどのように聴くのでしょうか。

 

序の1 拡大家族の保護 

今日の私たちの家族は、、夫と妻、そしてもし与えられれば、子どもたちからなる「核家族」ですが、イスラエル社会ではもっと広い「拡大家族」でした。そこには、祖父母や伯父さん、叔母さんたち、そして召使やあるいは奴隷と呼ばれるような人たちが暮らしていました。そのような拡大家族というものはイスラエルにおいては社会的、経済的生活の中心でした。家族はそこに住む一人ひとりに「いのちを保護する場所」を提供し、食物を生産し、また分け合い、一族郎党の生き残りを保証していたのです。当時は家父長社会であり、頭である男性がその一族の長でした。彼は召使たち、そして一人あるいは数人の妻を持っていました。家父長は彼の妻たち以外にも女性の召使らと性的関係を持つことが許されていたと言われています。アフリカはガーナの長老派の牧師の話です。「一夫多妻制度はセックスの事柄ではなく、経済の事柄で、女性たちと平等にセックスをするのは大変な努力がいる」と言っていました。ご苦労なことです。このような事情ではありますが、しかし、家父長たちは他の男性たちの結婚生活、家制度を妨げることは堅く禁じられていました。それゆえ、「あなたは姦淫してはならない」という戒めは、もっぱら男性に向けられた戒めであり、他の男性の所有物、結婚生活を性的に妨害することの禁止を意味していました。ここに女性蔑視を感じざるをえません。スイスの宗教改革者ツヴィングリがチューリッヒの教会に司祭として招聘される際の役員会での記録が残っています。役員たちは、「ツヴィングリさん、あなたの女性関係は大丈夫ですか?」と尋ねます。ツヴィングリの答えは、「はい、人妻には手を出していません。」です。役員会は「はい、よろしい」でした。このように、「姦淫してはならない」との戒めは、一方では性的関係を暗い下半身のことがらとして抑圧したり、他方、結婚制度を保護しようとしてはいますが、結婚生活そのものを絶対化することを避けています。「姦淫すること」は、神に逆らう罪と考えられ、違反者は村や町の門で審かれ、公衆の面前で石打ちの刑で殺されたのです。

 

序の2 交わりにおける自由

しかし、今日、事情はかなり異なっています。男女平等は人間の基本的人権として法律上は保証され、拡大家族は核家族となり、奴隷制は不法とされ、召使は裕福なほんの一握りの人々が持っているのみです。むろん、主人といえども、召使と性的関係を持つことは許されないことです。石打ち刑もほとんどの国で受け入れられていません。そして、結婚というものが成人した人間の社会的義務であったり、単に子どもを産むことを目的としているのではありません。「統一協会」の結婚観は明らかに間違っています。愛と性生活そして結婚は、喜びを目指して二人が共に生きることを自由に選択することで成り立っています。

 このように、家族や結婚のあり方は随分変化したとしても、今日、家族という生活単位は重要なままでしょう。パートナーたちは、お互いに真実に生き、お互いの人格を尊重すべきことを前提としているわけです。うまく行っている結婚生活と安定した家族というものは、新しい世代が、人間が互いに信頼するとはどういうことか、愛とは何か、自由と責任の緊張関係を学ぶ環境を提供しています。ある極端な人々は「フリーセックス」と言って、姦淫を受け入れ、それを奨励するような小説家たちやテレビドラマも無いわけではありません。しかし、「あなたは姦淫してはならない」という第七戒は、結婚という枠組みを超えた性的交渉が、決して愛と信頼と自由と平等を育むことはできないといこと、結局は、人を傷つけ、自分自身を傷つけることになるという事実を私たちに突きつけています。以上のような前堤を踏まえて、この戒めに耳を傾けてみましょう。

 

1.開かれるために、閉じられていること:交わりの中で生きるもの

 まず、第一のこととして、「あなたは姦淫してはならない」という戒めは、結婚生活と家庭の形成を大切にせよ、と語っていることに注目してみましょう。 創世記2章によれば、「ひとは一人でいるのは良くない」と言われ、創世記1章によれば「ひとは神のかたちに」つまり、「男と女とに」創造されたと言われています。むろん、こんなに単純ではなく、今日では、LGBTQを受け入れることが問われています。女性の同性愛、男性の同性愛、両性に向かう性的志向性、そして出生時における生物学的な性(sex)と性的志向性(sexual orientation)とが一致しない人、自分の社会的性別(gender)が揺れている人がいるのです。ですから、結婚生活は、男女関係のあくまで一つの具体的姿です。先日同性婚を認めないのは憲法違反であると言う裁判所の見解も示されています。いろいろ問題はありますが、人は、出会いと交わりの中で生きるものであることが本質的なのです。

結婚生活は、二人の親密さで「閉じられている」ので、二人の中にその友や客を招くことができるのでしょう。開かれるために閉じられ、閉じられているので、開くことができるのではないでしょうか!しかし、時には自由に一人でいられるようにしてあげること、そうしてもらうことも必要でしょう。

もちろん、共に生きる人間の生き方は、男と女との出会いと交わりに尽きるものではないし、結婚だけが男と女との関係の唯一のものではありません。他ならぬ主イエスもまたパウロも独身でありましたし、できれば神様のために独身でいることが良いとお勧められてもいます。確かに友情関係やパートナーとしての関係も自由人としての在り方なのです。私は個人的に、東福岡教会が、性的少数者がカミングアウトできるような雰囲気の教会であるように願っています。少し横道に逸れましたが、このように限界づけられながらも、結婚と家族の形成は、人間同士の出会いと交わりの一つの典型であり、そこでお互いの人間性が日々試される場であります。

 

2.愛を生活すること、持続することの困難さ:脆さと保護

 第二のことは、結婚生活は愛を互いに、持続し、「生活すること」です。瞬間的に、気分的に好きだとか、愛着を感じることはあるでしょうが、一人の人と共に生きることを生活し、持続することは極めて困難なことです。特に、性生活は微妙で、脆く、傷つき易いのです。私はネイピアという人の「壊れやすい絆」(The Fragile Bond)とういう本を読んだことがありますが、「フラジャイル」とは荷物に「壊れやすいmの、取り扱い注意」と書いてあるので、少し笑ってしまいました。

また、確かに、性行為(セックス)というものは「愛の表現」です。しかし、それは生活の一部です。性交渉は容易に自己中心的欲望のために用いられうるのです。人間の持ちうる素敵な体験とも言えるものが容易に人間の尊厳を犯し、人間の品位を落とすことができるのです。愛を離れた性的交渉は単なる快楽のはけ口となり、愛の関係を離れて、他者は単に自分自身の欲望や寂しさややるせなさのはけ口として用いられるだけです。配偶者を支配・コントロールする「駆け引き」のために性交渉を拒んだりすることもあるのでしょう。そのような中で、主イエスは「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いている通りである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と警告しています。主イエスは新しい、厳しい戒めで私たちをがんじがらめにすることを意図しているのではありません。ファリサイ人・律法学者もように逸脱・違反者を告発しようとスパイのように監視しようというのでもありません。そうではなく、人を自分の欲望の対象としてしか見ない姿勢は、あるいは、結婚という垣根を越えて、他者と性的関係を結ぼうとする姿勢は、当座は内緒で、うまく行くように見えても、その相手の人の配偶者の尊厳を傷つけ、相手の人の子どもたちの安定的環境を破壊し、そして、自分自身の配偶者を辱め、自分の子どもたちを傷つけているのです。主イエスはこのように傷つき易く、人を傷つけやすい弟子たちを自由へと解放するために、心の「動機」の段階で人を性欲の対象としてみることが極めて危ないものであると警告しておられるのです。こうして、「あなたは姦淫してはならない」という戒めは、人間にとって、共に生きるということがいかに困難でしんどいものであるか、お互いの、どう仕様もない我が儘、早まった絶望、あまりに容易に他の人の処へと逃げてゆくこと、そのような人間同士であるということを知っているのです。

 

3.互いに人格を尊重すること:交わりにおける自由

 では、この戒めが語る人間と人間との出会いと交わり、そして、そこにこそ、自由と平等と豊かさがある生き方は、いかにして可能なのでしょうか? これが第三のテーマです。再三再四強調しているように、この戒めもまた、十戒の序文「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」から読まれねばならないし、読まれることができるのです。「あなたは姦淫してはならない」と呼びかけられている「あなた」とは、神にこよなく愛され、かけがえのないものとして大切にされている「あなた」であるということです。イスラエルをエジプトの奴隷状態から、自由と平等と人間性の尊厳へと解放された神、イエス・キリストの十字架のあがないによって罪と律法から解放してくださった神が「あなた」と呼びかけておられるのです。罪ある人間同士の共同の生活は、神との出会い、神の赦しの出会いの事実なしでは耐えられないのです。隣の芝生は美しく見える。隣の女性は優しく、綺麗に見える。隣の男性は頼もしく、素敵に見える。ひょっとしたら、私たちは神に求めるべきものを人間に求めているのではないでしょうか。傷つき易く、脆い人間に解放者である神、恵に満ちたキリストやマリヤさんを求めているのではないでしょうか。姦淫とは満たされない寂しさ、エゴのやり場を他者に向け、そして、慰めを神に求めず、人に求めることの一つの結果なのではないでしょうか? 本来神に求めるべきものを人間に求めて得られない心の空洞を埋めようとする欲求の突き上げは強烈で、姦淫という形となり、配偶者の人格、相手の配偶者の人格、互いの子どもたちの人格、そして結局当事者二人の人格の尊厳を傷つけてまで、そのような情慾に身を委ねてしまうことになるのです。それは単に性的欲求が強いという問題ではなく、目に見えない神を目に見える人間に求める偶像礼拝なのです。私たちの心を満たし、傷つき易く、脆い自分を自覚しながら、傷つき易く、脆い他者を愛することは、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」という神を自分の神とすることからしか来なのです。そしてもし人間の共同の生活が神と人間との出会いと交わりのしるしであるとすれば、このことは神の恵みを指し示す使命を帯びていることを意味します。もし人が二人で向き合い、お互いの欠点を探し合うのであれば誰が耐えられるでしょうか。ただ二人が共に与えられている使命、それがどのような形のものであれ、神の豊かな赦しと、神と人との出会いと交わりにおける自由を指し示すという使命へと身を伸ばすことによってのみ、二人は共に生きることができるのです。(松見俊)