第二コリントはいくつかの手紙が集められた手紙とされています。この箇所は、一度書かれた手紙に、挿入された箇所とされ、実際に誰が書いたのかというところから、様々な問題を抱えている箇所となります。ただ、今回はそのことについては深く掘り下げてはいかないでおきます。
1: 当時のコリントの教会の状況
コリントの教会の人々は様々な神々を神とし、特に他の神を礼拝してはいけないという教えもありませんでした。キリスト者として回心したときに、これまで信じていた神々を信じてはいけなくなるとは思っていなかった人々が多かったのです。また、様々な生活習慣の中に、これまでの神様を礼拝するような習慣がいくつもあったのです。
パウロは、Ⅰコリント8章でコリントの人々が、偶像に献げられた食物の使用することについて語っています。キリスト者が神殿で持たれる祝祭の食事をいただくことについて(Ⅰコリント8:7-13)、または、友人の家で、偶像に献げた肉を食べること(Ⅰコリント10:23-30)などの問題にパウロが答えています。
日本にも生活習慣のうちに、多くの別の神様を礼拝するような習慣があります。お正月には神社に行き、クリスマスをお祝いし、葬儀は仏式で行うという方もたくさんいるでしょう。キリストを信じて、回心した者はどのように生きればよいのでしょうか。
2: 分離することを勧めているのか
パウロは、【信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません】(6:14)と言います。続けて「正義と不法」「光と闇」「キリストとベリアル」「信仰と不信仰」「神の神殿と偶像」と5つの対の言葉を挙げ、キリスト者と異教徒の関係について語ります。
今日の箇所を用いて、キリスト教は、別の宗教を受け入れてはいけないと考える人たちもいます。また、キリスト教の中でも「中絶」や「LGBTQ」といった差別の問題、奴隷制度など、キリスト教内部の意見の違いを受け入れないことにも、この箇所が用いられてきたのです。
当時のコリントの教会の人々は、異教徒による社会の中にいたのです。もしそこから完全に分離して生きていくとするならば社会から出て行かなければならなくなるのです。
イエス様はこのようにも言われました。マルコ9:38-41【9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」】(マルコ9:38-41)
当時のイエス様の論敵、ファリサイ派は「分離する者」とされ、律法を厳守し、他の人々とは違う生活を送り、自分たちの信仰を守ろうとしていたのです。イエス様はそのような者たちに、信仰とは「分離」だけではなく、神様の恵みを土台とした「分離」から、「対話」を生み出すことだと教えられているのです。
3: 神様の神殿として生きる
パウロはここで【わたしたちは生ける神の神殿なのです。】(Ⅱコリント6:16)と教えます。Ⅰコリント6章12節からの箇所でも教えています。(Ⅰコリント6:18-20)Ⅰコリントでは、【自分の体で神の栄光を現しなさい】(Ⅰコリント6:20)と教えます。今日の箇所も、様々な異教に囲まれている人々に対して、パウロは、どのようにするべきか、何をしてよくて、何がいけないのかと考える中で、「あなたがたはキリストによって買い取られた神の神殿です。神の栄光を現しなさい」と教えているのです。
ここで言われるところの「信仰のない人々」、つまり、「不法」「闇」「ベリアル」「不信仰」「神殿と偶像」とはいったい誰のことでしょうか。コリントの人々も含め、私たちも「信仰のない人々」であり、信じた後も、何度もそのように陥っているのではないでしょうか。神様は、そこに来てくださいました。(Ⅱコリント6:16)私たちはただ神様の恵みによって、生ける神の神殿とされました。神様が、この世に来られ、私たちの神となり、私たちを民としてくださったのです。
4: 神を畏れて生きる
ここでは、神様による恵みを受けた者として生きる生き方を教えます。私たちは、キリストを信じた者として、これまでの生き方から、新しく神を畏れる者として生きていきたいと思います。私たちは、神様の恵みによって、【肉と霊のあらゆる汚れ】(7:1)から解放されたのです。それは、ただ愛されているという恵みを頂いたということです。
わたしたちはこの恵みを頂いて、この社会で生きていきます。私たちはこの中で、何よりも神を畏れ、神様の救いを感謝し、その神様の愛を土台として生きていきたいと思います。(笠井元)