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2023.6.18 「あなたの救いとは何ですか」(全文)  ルカによる福音書7:18-23

1:  バプテスマのヨハネの問い

 今日の箇所は、バプテスマのヨハネの弟子たちが、ヨハネに「これらすべてのこと」とあるように、イエス様のなされた、御業を伝えたところから始まります。このときの「これらすべてのこと」というのは、このルカによる福音書の7章で見れば、カファルナウムにおいて、百人隊長の僕が癒され、ナインでやもめの一人息子を生き返らせたという奇跡の業として見ることが出来るのです。 

16節からはこのようにあります。【人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。】(ルカ7:16-17)人々は、やもめの息子が生き返らされたことに畏れつつ、神様を賛美して【神はその民を心にかけてくださった】(ルカ7:16)と賛美したのです。主イエスの御業を見て、人々は、神様がこの世を顧みてくださった、今、自分たちが生きる、ここに、神様が訪れてくださったと賛美したのでした。

 バプテスマのヨハネの弟子たちは、これらのことをヨハネに伝えたのでしょう。この弟子たちの報告を受けて、バプテスマのヨハネは、弟子たちをイエス様のもとに送り、【「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」】(ルカ7:19)と、尋ねたさせたのです。「来たるべき方」。バプテスマのヨハネは、ルカによる福音書3章16節においてこのように語っていました。【そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」】(ルカ3:16)バプテスマのヨハネは、イエス様に、「あなたこそが、わたしよりも優れた方、聖霊と火で私たちに洗礼をお授けになる方でしょうか。あなたこそが、私たちの待ち望むメシア、救い主でしょうか」と尋ねているのです。

 この質問はバプテスマのヨハネが、イエス様のことをメシアと信じることができず、疑いをもち、尋ねているというようにも見ることができます。しかし、このヨハネの問いは、ある意味、問い、疑問というものではなく、むしろ、この言葉を聞く者・・・つまりヨハネの弟子たち、その時イエス様の隣にいた群衆、そして私たちに、「あなたはこのような者を救い主だと考えますか。あなたはほかの者を救い主として待つのでしょうか。それとも、この方をあなたの救い主として受け入れるのでしょうか」ということを問うている言葉として見ることができるのです。

 ここで使われている「待つ」という言葉は、原語では「探す」という意味を持つ言葉となります。バプテスマのヨハネは、ただ、待つだけではなく、探すことを私たちに教えているのです。ヨハネは、この時の領主ヘロデに捕らえられ、牢屋に入れられていました。そして、最終的には、この後、この牢屋で殺されていくことになるのです。そのような苦しみの中で、バプテスマのヨハネは、「あなたは救い主、メシアですか。そうでなければ・・・もはや私は諦めます」というのではなく、「あなたは救い主、メシアですか。そうでなければ、私は、待ち、探し求めていきます。私は諦めることはありません。神様が約束してくださった方が来られるのを待ち続けます。探し求め続けていきます」と語っているのです。ここにバプテスマのヨハネの疑問、疑念ではなく、ヨハネの神様への深い信仰、粘り強く待つ、その心を見ることができるのです。

 

 そして、この言葉をもって、バプテスマのヨハネは私たちに問いかけているのです。「あなたは救い主を探し求めていますか」、「あなたにとって探し求める救い主とはどのような者ですか」、「実のところあなたはもはや救い主が来ることなど求めてもおらず、自分を救い主としていませんか」、「本気で救い主が来られることを探し求めていますか」と問うているのです。

 

2:  あなたにとってのメシアとは

 このとき、バプテスマのヨハネにとって大切であったこと、確かめたかったことは、単にイエス様が、このような奇跡を本当に行ったかどうかということでも、またそのような奇跡を信じることができるか、できないかということでもないのです。ヨハネにとって大切なことは、先ほども言いましたが、「聖霊と火によってバプテスマを授けられる方」なのか、この方が救い主なのか、そしてこの方によって、神様の救いの約束が実現なされるのか。「あなたがメシア、救い主ですか」という問いであったのです。当時のイスラエルにおいて、メシア、救い主、そして「来たるべき方」として待ち望まれていたのは、・・・かつて、エジプトの国において奴隷の状態にあったイスラエルの民を解放に導いたモーセのように、または、繁栄を極めたダビデやソロモンのように、またバビロニア帝国によって捕囚の民から、救い出して下さったように、今、支配されているローマ帝国から解放してくださる方・・・そのような救い主が求められていたのです。実際にイエス様の弟子の中にも、現実の立場の回復を行ってくれる政治的指導者、ダビデ王のように、力強く、イスラエル王国をもう一度再建してくださる方を、メシア・キリスト・救い主として求めている者も多くいたのです。そしてそれこそが、当時のイスラエルにおけるメシア像、救い主としての姿であったのです。 そのような常識の中で、バプテスマのヨハネは、イエス様の言葉と御業を聞き、「あなたこそが神様が約束された救い主ですか」と尋ねたのです。それはある意味、常識からはありえない質問といってもおかしくないのです。政治的指導者でもなければ、ローマ帝国に対抗するような集団を作っているのでもない。そのようなイエス様に、バプテスマのヨハネは、当時の常識を超えて、尋ねたのです。「あなたこそがメシアですか」と。

 このヨハネの問いに対して、イエス様は、このように言われたのです。【「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」】(ルカ7:22-23

 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」これが、イエス様のなされていた御業です。イエス様はバプテスマのヨハネに対して「わたしが救い主」です、とは答えませんでした。そうではなく、逆に、「私はこのように行っている。あなたはそのような者をあなたの救い主として受け入れるのですか」と問われているのです。

イエス様は「この世の常識では、メシアとは新しいイスラエル王国をつくるようなものだと考えられているが、あなたにとって、救い主、メシアとは、どのような者として考えているのですか。あなたは、そのような政治的解放を求めているのですか。それが神様の与えられる本当の救いだと考えるのですか。よく考えてみなさい。」と問われているのです。

 そして、このことは、まさに、私たちにも問われていることなのです。「あなたは何をもって、自分の救い主とするのか・・・・」。私たちは、このことを問われているのです。

 今、皆さんにとっての救いとは何でしょうか。皆さんが求める「救い」とはどのようなことをいうのでしょうか。私たちは何を得ることで幸せになれるのでしょうか。皆さんは、自分の心の奥底まで見てみたときに、何を求めているのでしょうか。私たちは日々、色々なものに囚われています。この生きている社会。それぞれ、会社、学校、家庭、そして教会といった社会に生きています。そこには人間関係が生まれてきます。大切な人、そうでもない人、自分を必要とする人、自分を必要としない人。様々でしょう。もっと目線を広げてみれば、少子高齢化、環境問題を抱えるこの世界。ウクライナでは戦争が続くなか、多くの場所での紛争は終わることがありません。人間が人間を傷つけ、命を奪うということが起こっているのです。私は幼稚園の園長もしていますので、特に子どもの減少の情報はたくさん受け取っています。どうすればいいのでしょうか。未来に希望はあるのでしょうか。

だいぶ前、西南の神学生の頃、今からは20年も前の話となりますが、西南神学部には、神学コースと、キリスト教人文学コースと二つのコースがあります。私は牧師や宣教師などになるための神学コースだったのですが、キリスト教人文学コースの人たちとも仲良くしていました。その人文学コースの人たちと話をしている中で、このように言う人がいました。「自分は結婚もしたくなければ、子どもは必要ない。なぜなら、こんな希望のない世界に、愛する人を作り出すことは苦しみでしかないし、自分に、もし、愛する家族が与えられたら、大変。その人たちが可哀そうだし、自分も耐えられない。これから後の社会で、この希望のない未来に愛する人を作ることは自分はしたくない。」と言ってきたのです。ただ、そう言う人に対して、もう一人が、このように言ったのです。「あなたの考えは、それはただの自己中心でしかない。あなたは一人の人間として、この世界を担わなければならない。愛する人を作ることが苦しみでしかない世界なら、あなたはそれを変えるために生きなければならないんじゃない。世界のすべての人を愛さなきゃ。誰も見捨ててはいけない。あなたは結局、世界の人を愛そうとはしていない。他の人は見殺しにしてもいいと思っている。どれほど小さくても、今の世界を生きる一人として、あなたは誰一人として見捨ててはいけないし、自分の家族ではないとしても、これから生まれてくる命を守らなければならないし、あなたが未来に責任を持たなけれなければいけない。未来が、希望を持てる、社会に変えるために生きていかなければならない」と言ったのでした。

私は、この言葉を聞いて、なるほどなと思いました。希望が持てないから・・・と後ろ向きになるのではなく、希望を持てるように生きていくと前向きに生きていくことの、大切さを教えられました。少し付け加えるなら、どれほど絶望的でも、私たちは諦めてはいけない。むしろ神様がこの世界を愛してくださっていることを、信じることをやめてはいけない。神様が私たちを愛してくださっている以上、私たちの未来には希望がある。その神様の御心を受けて生きていきたいと教えられました。私たちは一体何を救いとして、誰を救い主として生きているのでしょうか。

 

3:  来たりつつある方

 イエス様は、神の子でありながら、人間となり、この世に来られたのです。イエス様の生きた道。それは、目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、耳の聞こえない人、死んでいった人、貧しい人。そのような人に寄り添われた道でした。そして、十字架という道に至るまで、すべての人に仕え、寄り添われたのです。自分の命をかけてまで、私たちの隣に生きてくださるのです。

聖書は、このイエス・キリストこそが、救い主と教えるのです。政治的に力を持つ方でも、私たちの生活を豊かにしてくださるのでも、ありません。ただ、無力になられた方。無力になり、そのことによって、私たちの苦しみに寄り添い、生きたキリスト。死に至るまで苦しまれた方。神様は、この方、イエス・キリストによって救いの御業をなされたのです。このことを通して、私たちに愛を示されたのです。イエス・キリストが共に生きていて下さる。ここに私たちは、新しく生きる勇気と希望をいただくのです。 

 バプテスマのヨハネは弟子たちに「来るべき方は、あなたでしょうか。」と尋ねさせました。この「来るべき方」という言葉は、原語から見るならば「来たるべき」ではなく、「来たりつつある方」と訳す方がよいとされます。「来たりつつある方」。つまりすでに来つつある。すでに多くの人々が癒しを得て、その人生において、希望を受けている。私たちもすでにこのイエス・キリストに触れている。イエス・キリストが触れてくださっている。イエス・キリストが隣に来てくださっている、ということです。イエス・キリストはすでに「来たりつつある」のです。私たちの人生に関わり、共に生きてくださっている。そして、それは今、ここにすでに神の国、神の愛の支配がはじまっていることを意味することなのです。「御国を来たらせたまえ」と祈る私たちの隣に、イエス・キリストが来てくださり、今、ここに、神の国の恵みの到来が始まっている。私たちはその神様の愛を感じ、受けて、生きることが許されているのです。そして、ここでは、このヨハネの言葉をもって、私たちに問いかけているのです。「あなたは、このイエス・キリストを、自らの主、救い主とするのですか。それともまた違うものを救い主とするのですか」「力や富、栄光や名誉。何を得ることがあなたにとってすくいなのでしょうか」「あなたにとっての救いとは何なのですか」と。

 

4:  わたしに躓かない者は幸いである

最後にイエス様は【「わたしにつまずかない人は幸いである。」】と言われました。人間がイエス・キリストに出会うということは躓きに出会うということなのです。自分を愛し、他人を愛することはできない、人間です。神様を必要とすることなどまったくなく、すべてを自分の力でどうにかしようとする人間。神様に目を向けず、結局のところ自分だけしか見ていない人間。そのような者に対して、他者を愛し、他者の苦しみに寄り添い、癒し、死に打ち勝ち、貧しい者に祝福を与える。そのようなイエス・キリストという存在は、躓きでしかない。そのような私たち人間に、イエス様は言われるのです。【「わたしにつまずかない人は幸いである。」】これは、イエス様の私たちに向けられた招きの言葉です。わたしに躓くのではなく、私があなたと共に生きている。このことを受け入れてください。私はあなたを愛している。心を開いて、一緒に生きていきましょう。 

 あなたの救いは、ここにあります。自分を愛するだけに留まるのではなく、他者を愛する道に進みましょう。今生きている生き方を変えてみましょう。そこに必ず神様の恵みを受ける道があります。イエス様は「今、受け取りなさい。今心を開きなさい。私があなたの救い主だから。」このように、私たちに語り掛けてくださっているのです。私たちは、このイエス・キリストの招きに応えていきたいと思うのです。私たちは決断しなければならない。このまま自分を救いの主として生きるのか、それともイエスをキリスト救い主として生きるのか。今、ここで変えられていきましょう。そのために、イエス・キリストは、十字架で死に、復活されたのです。あなたを愛し続けておられるのです。(笠井元)