1: バプテスマのヨハネの問い
バプテスマのヨハネは、弟子たちをイエス様のもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(ルカ7:19)と尋ねたさせたのです。
この質問はバプテスマのヨハネが、ヨハネの弟子たち、その時イエス様の隣にいた群衆、そして私たちに、「あなたはこのような者を救い主として受け入れるのでしょうか」と問うている言葉として見ることができるのです。またバプテスマのヨハネは、ただ、待つだけではなく、探すことを私たちに教えているのです。
2: あなたにとってのメシアとは
ヨハネにとって大切なことは「あなたがメシア、救い主ですか」という問いでした。当時のイスラエルにおいて、メシア、「来たるべき方」として待ち望まれていたのは、繁栄を極めたダビデのような者、今、支配されているローマ帝国から解放してくださる方、そのような救い主が求められていたのです。バプテスマのヨハネは、当時の常識を超えて「あなたこそがメシアですか」と尋ねたのです。
イエス様はバプテスマのヨハネに対して「わたしが救い主」ですとは答えず、逆に「私はこのように行っている。あなたはそのような者をあなたの救い主として受け入れるのですか」と問われているのです。このことが私たちにも問われているのです。今、皆さんにとっての救いとは何でしょうか。私たちは何を得ることで幸せになれるのでしょうか。
3: 来たりつつある方
イエス様の生きた道は、目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、耳の聞こえない人、死んでいった人、貧しい人に寄り添われた道でした。そして、十字架という道に至るまで、すべての人に仕え、寄り添われたのです。「来るべき方」という言葉は「来たりつつある方」と訳す方がよいとされます。つまりすでに多くの人々が癒しを得て、その人生において希望を受けている。イエス様はすでに「来たりつつある方」として、私たちの人生に関わり、共に生きてくださっているのです。
4: わたしに躓かない者は幸いである
人間がイエス・キリストに出会うということは躓きに出会うことです。自分を愛し、他人を愛することはできないのが人間です。そのような者に対して、他者を愛し、他者の苦しみに寄り添い、癒し、死に打ち勝ち、貧しい者に祝福を与える。そのようなイエス・キリストという存在は、躓きでしかないものなのです。イエス様は「わたしにつまずかない人は幸いである。」と私たちにを招かれているのです。イエス・キリストの招きに応えていきましょう。(笠井元)