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2023.6.25 「御言葉を宣べ伝えなさい:自分の務めを果たす」(全文)  テモテへの手紙第二4:1-5

1:  神学校週間を覚えて

本日から7月2日までは、神学校週間となります。バプテストには、西南学院大学神学部、九州バプテスト神学校、東京バプテスト神学校の三つの神学校があります。現在、西南学院大学の神学生は5名、九州バプテスト神学校の神学生は9名、東京バプテスト神学校は11名となっています。是非、皆さん、神様の御業を担う働き手の学びが祝福されるように、また新しい働き手が与えられますように、お祈りしましょう。私たちの教会は、現在は、教会から推薦している神学生がいるわけでもありませんし、神学生が研修に来ているわけではありません。そういう意味で、神学校、そして神学生という存在が少し遠く感じているかもしれません。私たちは、だからこそより意識をもって、神学校で学ぶ方々のために、より一層強く祈っていきたいと思います。

現在、特に西南学院大学の神学部は学生不足として危機的状況にあるとされています。もともと私が神学生だった20年前からも人数の少なさはいろいろなところで問題として挙げられていました。あれから20年たった今、問題は解決されず、危機的状況となってしまったということでしょう。多くの教会で「西南学院の神学部は何をしているのか」「西南学院の神学部、教師、生徒に問題があるのでは」と言われていることがあるようです。

ただ、この人数が少ないという問題は神学部だけに押し付けるものではないでしょう。神学部の人数が少ないというのは、献身者が少ないということです。いわゆる神学生、牧師になるという召命、神様からの招きを受けていくのは、教会での信仰生活を送る中で与えられるものでしょう。その思いを、各教会が共有し、理解し、期待と責任をもって送り出すのです。神学生が少ない・献身者が少ないということは、そのような人が少なくなっているということで、単に、「神学部の問題」とは簡単には言えないのです。少なくとも、私自身は、神学部に魅力があるか、ないかで、献身をしたのではありません。一番には、もちろん神様の召し、招きによるものだと考えています。そして、その招きを受けていった過程として、教会での兄弟姉妹との交わり。共に礼拝し、賛美し、祈り。また、様々な経験や悩み、疑問、そのような中でいただいた牧師先生の言葉や、教会員の皆さんの励ましや祈り。そのような教会での生活を通して、「キリストの愛を伝えたい」という思いを与えられ、押し出されてここまでやってきました。

そのように考えますと、神様の御言葉を伝える者として、召されていく人が減少しているという問題の一つの理由としては、神学校どうこうの問題ではなく、各教会の問題、もっと言うならば、その信仰共同体を形成する、一人一人の信仰の問題が、結果、神学校にしわ寄せがいっているということになるのです。

 

2:  御言葉を宣べ伝えることの難しさ

 パウロは今日の箇所で、このように教えます。【4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。】(Ⅱテモテ4:2)このとき、パウロは投獄され、まもなく自分の死が近づいていると感じていた時期だったと考えられます。実際にこの手紙は、パウロが最後に送ったとされる手紙でもあります。パウロはそのような死を目の前にして、それこそパウロにとっては、「折が悪い」、その時に、弟子であるテモテに、御言葉を宣べ伝えるようにと励ましたのでした。そしてテモテはその言葉を受けて、苦しみの中でも、教会がイエス・キリストに従い、信仰を持ち、宣教を続けるように、歩んだのでした。この言葉は、もちろん今の私たちにも向けられて語られています。神様は私たちに【4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。】と教えるのです。

 私たちは今、神様の御言葉を喜んで受けて、宣べ伝えていきたいと願っているでしょうか。神様の福音を伝えたい、伝えよう、と熱い思いをもっているでしょうか。私たちは、ただ一つの願いとして、隣の人に神様の愛を知って欲しいと願っているでしょうか。

 

ただ今の時代は「折が良いか悪いか」といったら、私としては「とても悪い時」だと思います。少し前になりますが、宗教関係の問題から、元総理大臣が襲撃されるという事件が起こりました。そして、そこから、メディアによる宗教へのバッシングが拡がっています。今の日本では「宗教2世」という言葉も使われるようになり、信仰を継承していくこと自体も問題とされています。このようなご時世の中、私たちが、「福音を伝えよう」という思いを持っていたとしても、実際に行動していくことは、とても困難な道に感じられます。 

パウロは【4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。】(Ⅱテモテ4:2)とテモテを励ましました。つまり、それは、そのように生きることが難しいということでもあるでしょう。そのような思いを持ちたい。持って欲しい。だから励ましている。ただ実際はそのように生きることが難しいということでもあるのでしょう。そのような意味で、本来、私たちが生きる中で、このように「折が良くても悪くても、主の福音、神の御言葉を宣べ伝え続ける」ことは、とても難しいということなのです。

 

3:  自分のための言葉しか聞かない者

パウロは3節からはこのようにも言いました。【4:3 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、4:4 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。】(Ⅱテモテ4:3-4)まさに、今は、この時、「人々は自分に都合の良いことは聞くけれど、真の恵みである御言葉はきかない時」となっているのです。 

 今は、情報が溢れています。インターネット、SNSなど、何でも検索すれば出てきます。しかも、その検索によって、一度何かしら記事を開くと、その記事を開いたことから、今度は、そこから、検索した人の好きそうな記事を選んで出すようになっていくのです。それはそれで、使う方にとっては、読みたい記事が出てくるのですから、使い勝手が良くなっていくとも思うのです。ただそれは、何度も使えば使うほど情報が狭められていくことにもなります。つまり、得る情報が偏っていくことになるということです。私のケータイでニュースを見ると、「宗教」「政治」「子育て」「教育」「スポーツ」の記事ばかりがまず出てくるようになっています。そして、実際にそのような記事ばかりを見るようになっているとも思うのです。それはある意味、自分の好きなことだけを聞く耳となっていると言えるでしょう。つまり、自分の都合の良いことばかりを聞く耳とされていっている。そのように造り上げられているということです。現代は、自分にとってだけ必要な情報、耳ざわりの良い言葉だけを聞くようになっているのです。それはある意味、聞きたい言葉は聞くけれど、聞きたくない言葉は聞くことができない者として育てられているというとも言うことができるでしょう。偏った情報しか得ていない、ということは、「自分のために」という思いがとても強くされている時代となっている一つの原因とも言うことができるでしょう。

 

先日は、幼稚園関係で、カウンセリングの研修がありました。その時の講師の方は、大学の教授の方でしたが、自分も本当に良いコミュニケーションをとるための極意のようなものは分かっていないと言われていました。素直な方だなとも思いました。その方は、研修の中では、自分の考えがすべてではないが・・・と言いながらも、良いコミュニケーションのために必要なものとして、二つ挙げられ、「相手を信頼する」ということと、「良いモデルを見つける」ということだと、言われました。私としては、この答えには、疑問を持ってしまいました。であれば、「相手を信頼する」・・・つまり「人間である誰かを信頼する」とは言わず、「神様を信頼する」とするでしょう。「誰か良いモデルを見つける」とするならば、それはこの世の人間の誰かではなく、「イエス・キリスト」です。「神を信じて、キリストに従って生きる」。私としては、これが私が取るべきコミュニケーションの姿勢ではないかと思います。

つまり、「自分のため」ではなく「神のため」「隣人のため」に生きることにあるともいえるかもしれません。私たちは、人を信頼して、裏切られ、傷つき、立ち上がることができなくなるのです。だから、私たちは決して裏切ることのない、神様、イエス・キリストを信じるのです。どれほど家族や友人、信頼していた人に裏切られ、傷ついたとしても、私たちの土台は、イエス・キリストにあるのです。神であり、人であり、すべての人間のために自らの命さえも投げ出して仕えた方、イエス・キリストを、私たちは信頼するのです。私たちは、このイエス・キリストを土台として、モデルとして、従い生きるのです。

 聖書は、このような中で【4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。】と教えるのです。御言葉を伝えること。これが私たちキリスト者の存在意義ともいえるでしょう。少し前になりますが、祈祷会で、国連事務総長となられたスウェーデンのダグ・ハマーショルドという人について学びました。この人は、1953年に歴代最年少の47歳で国連の事務総長に選任され、反植民地を掲げ、アフリカ解放のために献身的に働かれた方です。その中で、1961年に、多くの側近に危険だと忠告されながらも、コンゴ動乱の停戦調停のために、コンゴの人々にも神様の「祝福」を伝える使命があるとして出かけたのです。しかし、その道の飛行機事故によって、国連事務総長としては唯一現役で召されたのです。このハマーショルドの言葉として、このような言葉が残されています。「人生の価値は他人にとってのわたしにしかない。わたしの人生は、他人にとって価値がなければ、死にも劣るものである」(『道しるべ』p.163一部変更有)ハマーショルドはキリストに仕える者として、すべての人の祝福を願い、「自分」ではなく「他者」のことを想い生きたのです。

 私たちは、イエス・キリストの愛を伝えたい。それは「自分のため」ではなく「他者のため」に生きることなのです。私たちが生きていること、その存在が、神様の愛を表す存在でありたいと思うのです。

 

4   教会の祈りに励まされて

パウロは【とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。】(4:2)とも教えました。キリスト者が愛を表す姿の一つは「仕える」という姿があるでしょう。そして私たちはそのために、「とがめ」「戒め」「励ます」のです。現代は、この「とがめられる」こと、「戒められる」ことを受け入れないで「励まさる」ことだけを求めているのではないでしょうか。ここに愛の交わりの一部が欠如してしまっていると言うことができるのです。そして、これは、神学校で学ぶということにもつながっているとも言うことができるでしょう。献身し、神学校に入学して学んでいく中では、まず自分の信じてきた信仰を、疑い、問いかけ、一度ゼロに戻して、新しく構築していくこととなります。自分が信じてきた聖書の言葉の歴史や、これまで作られてきた信仰問答によるような信仰の意味、歴史的背景から、背後にある人間的争いなどについても学びます。ある意味これは、自分の信仰が「とがめられる」「戒められる」ということにもつながります。そのような生徒を先生たちは、もう一度構築するため「励まし」「教えて」くださるのですが・・・やはり最初は、自分の信じてきた信仰が壊されていくのですから、傷つき、苦しむこととなります。だからこそ、人間としての決心も必要ですが、むしろ神様の招きがあるということ、そしてそのことを支える教会の祈りが必要なのです。

人間は一人では立っていけません。この教会の祈りが支えるのです。信仰に向き合い、聖書に向き合い、正しいと思っていたことを砕かれ、それでも信仰を持ち続けていくということは、とても難しく、危険なことです。多くの神学生が、学びの中で、つまずき、苦しんでいくのです。だからこそ、教会の励ましが、必ず必要です。「とがめられ」「戒められる」中で、「励ましてくださる」存在が必要なのです。これが教会の使命です。私たちは神学生の、その信仰が守られるように、関わり、祈る必要があるのです。神学生は教会に仕える存在と勘違いをしてはいけません。私たち教会が神学生のために仕えるのです。祈るのです。

5:  自分の務めを果たす

聖書はこのように言います。4:5 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。】(4:5)パウロは、忍耐強く教え、学び、そして、「福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」と教えます。私たちには、それぞれ自分の務めがあるのです。私はこの言葉を何度も読む中で、では、神様の務めとは何だったのだろうかと思うようになりました。神様は、人間である私たちを救い出すという務めを果たされたのです。そしてそのために神様は、イエス・キリストをこの世に送って下さいました。そして、罪人とされる人、病にある者、孤独に生きている者の隣に来てくださったのです。そして、キリストは十字架において、死なれた。しかし、それもまた神様の救いの計画であり、神様は、ここからイエス・キリストを復活させ、私たち人間のすべてを赦し、また新しい命の創造をなされたのです。私たちが、自分を卑下してしまい、自分の存在を受け入れられないような時も、神様は、「私があなたを愛している」「私があなたを造った」「私が、あなたと共にいる」と教えてくださるのです。これが神様のなされた御業です。

私たちの第一の務めは、この神様の愛を受け入れることでしょう。神様が自分のために命を捨ててくださったということに、耳を開き、その福音を受け入れる。これが私たちのすべき一番大切なことなのです。この福音の御業を受け入れる時、私たちは、自分の生き方を変えなければならなくなります。つまり「自分のため」から「他者のため」になるのです。そして、だからこそ、人間は、この神様の御業から目をそらしていくのでしょう。人間は「自分のため」に生きていたい者なのです。「自分のため」に生きることができなくなってしまう。だから、この言葉に耳をふさぐのです。それは、神様の命を捨てた、私たちための御業を、見捨て、知らん顔をすることです。人間は自分にとって悲しいことが起これば、「なんで神様はこんなことを起こすのだろうか」と神様を恨み、心を閉ざします。しかし、その前に、人間は神様の痛みを見ようとは全くしないのです。ただ「自分のため」だけに神様を利用しようとしているのです。私たちは自分の務めを果たしていきたいと思います。それは神様の御業に真っ直ぐ向き合うことです。その御言葉をきちんと聞くことです。そのとき、私たちには神様の愛が見えてくるでしょう。そして、そのうえで、私たちは、この愛と出会った者としての働き、務めをいただくのです。

 

6:  幻を見る

 今年度の私たちの教会の標語は「主にある希望をもって幻を見よう」です。今年度の主題聖句は「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。(ヨエル書3章1節)です。今回、この神学校週間を覚える中で、この「主にある希望をもって幻を見よう」という言葉が浮かんできました。神様は、私たちに霊を注いでくださっています。私たちは、その霊を受けて、変えられて、預言し、夢を見、幻を見る者と変えられていくのです。神学校が苦しい状態であるならば、まず私たち一人ひとりが変えられていきましょう。まず、私たちが神様の霊を受けましょう。そして、私たちにできることを考えていきましょう。私たちにできることは、本当に小さなことかもしれません。しかし、その小さな働きを、神様は喜び、用いてくださいます。が良くても悪くても、神様が働いてくださるのです。どれほど苦しくても、どれほどピンチな時でも、だからこそ、神様の働きを信じましょう。そして私たちは、ただ自分のできることをしていきましょう。この一週間、まず、私たちが神様の愛と向き合い、神様が必ず働き、用いてくださることを信じて、神学校、神学生、先生たち、事務の方、そのために働くすべての人々のために祈り、自分にできることを考えていきましょう。(笠井元)