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2023.6.28 「神の御心に適った悲しみ」 Ⅱコリントの信徒への手紙7:5-16

1: コリントへの手紙 

パウロはコリントにいくつもの手紙を書いたとされ、第二コリントは、パウロの書いた5つの手紙を編纂したものと考えられています。

手紙A(2:14-7:4)はパウロの自分の使徒職の弁明の手紙です。手紙B(10:1-13:13?がこの手紙の一部とされる)は、いわゆる「悲しみの手紙」(Ⅱ2:3-4)として記されました。手紙C(1:1-2:13、7:5-16)は、パウロがテトスをコリントに送ったあと、テトスにトロアスで会うことができず、不安に襲われていた後、記されたとされます。手紙D(8:1-24)、手紙E(9:1-15)は両方とも基本的内容はエルサレム教会への献金の勧めとなっています。

今日の箇所は手紙Cとなり、これは、パウロが第三次伝道旅行のうちか、そのあとに記されたものと考えられます。

パウロは、混乱の中にあるコリントにテトスを送りました。手紙B「悲しみの手紙」において、コリントの人々を大きく傷つけ、悲しませたのではないかという思いと、そのようなコリントにテトスを送ったことによって、逆にもっとコリントの人々を傷つけたのではないか、またテトスが無事であるのかと不安になったのでしょう。

パウロは不安の中にありながらも伝道旅行を続けることで、諸教会の人々から、少しでも勇気と平安をいただければと願っていたでしょう。しかし現実は逆に、【外には戦い、うちには恐れがあった】(7:5)のです。

 

2: 気落ちした者を力づけてくださる神様

 今日の箇所において、パウロはそのような不安の中から力づけられたことを語ります。【しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。】(7:6

ここでの「気落ちした者」という言葉は口語訳では「うちしおれている者」、岩波訳では「卑しい者たち」、現代聖書注解では「気落ちした」では表現として弱すぎるとし、「全く悲惨な中」とあります。パウロは「全く悲惨な中」にあったのですが、テトスの到着によってその不安から解放されたのです。パウロはここに神様の慰めを受け取ったのです。

パウロは、問題が起きているコリントの教会に愛弟子であるテトスを送ったのです。そして、このことを通して、コリントの人々は悔い改める者となったのです。

この出来事は、パウロの自分自身の手腕によるものだと誇るような出来事としても見ることができるのです。(7:14)少しパウロの自分自身の「誇り」と「恥」という考えが見えるのです。

それでも、ここでは、この出来事は神の慰めの御業と語っているのです。神様が、私たちを導き、力づけてくださるのです。事が上手くいってもいかなくても、神様は私たちを力づけ、慰めてくださる。このことをいつも覚えておきましょう。

 

3: この世の悲しみと神の御心に適った悲しみ 

 パウロは、自分の手紙によって、コリントの人々が、一時的に悲しみながらも、悔い改めていったことを喜びます。ここでは世の悲しみと、神の御心に適った悲しみという言葉が出てきます。世の悲しみは死をもたらします。それは、人間の無力さを忘れ、自分、または他者を過信してしまうことから始まります。

 コリントでは何か事件が起こり「不義を行った者」によって、コリントの人々が間違った方向に向かってしまったのでしょう。そこにパウロは、コリントの人々が悲しみ、痛むような内容の手紙を送り、またテトスを送ったのです。そしてコリントの人々は、その間違った方向から、立ち帰ってきたのだとされるのです。これが「神の御心に適った悲しみ」とされます。

 コリントの人が向かってしまった間違った道は神様を必要としない道でしょう。

 

この世の悲しみとは、自分で自分の行ったことを自己反省し、また自分で生きていくことです。失敗と反省というサイクルをどれだけ続けても、神様に目を向けることへとつながらないからなのです。

 神の御心に適った悲しみ。そこから得る、本当の悔い改め。それは、自分で生きることから、神様の御心によって生かされていると信じ、受け取っていくことです。悔い改めは信仰に生きることです。自分で生きることから、神様に委ねて生きることへと、生きる道を変換すること。それが神の御心に適った悲しみなのです。

 

4: テトスを受け入れたコリントの教会

 パウロはテトスをコリントに送りました。このテトスの行く道は、とても難しい道であることはわかっていたでしょう。テトスはどのような思いでコリントに向かったのでしょうか。間違えると、コリントの人々に拒否されるだけでなく、捕えられてしまうかもしれないという不安をもっていたでしょう。しかし、テトスはコリントの教会において温かく迎えられたのです。

 

 私たちは、このように、自分たちを批判する人を受け入れることができるでしょうか。また他者を批判しなければならないとき、その者が神様に立ち帰るように語ることができるでしょうか。この時のコリントの人々、そしてパウロの手紙、テトスはそのように働いた。そしてその中心には、神様の御心があったのです。私たちも、自分の生きる道の中心にあくまでも、神様を置いていきたいと思います。(笠井元)