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2023.7.2 「神様が与えられる光を受けて輝く」(全文)  エフェソの信徒への手紙5:6-20

1:  光の子とされている

 今日の箇所で、聖書はこのように語ります。【あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。】(エフェソ5:8)この御言葉は私たち一人一人の心を励ます、大切な御言葉となります。私たちは、以前は暗闇の中に置かれていました。多くの人は、自分は、今も、暗闇の中に置かれていると思っているかもしれません。皆さんはいかがでしょうか。今、自分は光の子として生かされていると感じているでしょうか。私たちは「主イエス・キリストに結ばれて、光とされている」のです。まず、今、自分が光のうちに置かれていることを喜びましょう。

ただ、やはり、人生はそれほど簡単なものではないでしょう。いつも自分が光の内に置かれていると感じ続けることは、なかなかできないもの、いつもどんなときも幸せいっぱいだと思うことは、なかなか難しいものなのです。時に、困難の中に置かれることもありますし、予想していなかった問題にぶつかることもあります。そのような中で、疲れてしまい、生きていることが辛くなってしまう時もありますし、すべてを投げ出してしまいたくなるほど苦しくなる。そのような時もあるのではないでしょうか。生きる希望を見失い、決して抜け出すことができない、暗闇の中に置かれていると思い込んでしまうこともあるのです。

しかし、だからこそ聖書は教えるのです。【あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。】(エフェソ5:8)聖書の別の箇所である、ペテロの手紙では、このように記されています。Ⅰペトロ2:9【「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」であると。わたしたちは「暗闇から光の中へ招きいれられた」のです。】(Ⅰペトロ2:9

今、すでに、私たちは、イエス・キリストと結ばれています。私たちは、暗闇から光の中へと招き入れられたのです。キリストは十字架と復活という、驚くべき神の御業として、死に、そして復活されたのです。この御業を通して、すべての暗闇を打ち破り、私たちを光の子としてくださったのです。

 

2:  光とは・・・

宗教改革者であるルターは、今日の箇所について、このように語っています。「ここで、たった一つの光があることをはっきりと示し、私たちの知恵はみな、いかに賢くてもまったくの闇と結んでいるのをあなたは見る。なぜなら人の知恵が一、二、三と数え、また白黒、大小、その他の外的な事がらについて判別することができるとして、信仰が何であるかを見分けることはできない。たとえすべての人がその知恵を総動員しても、目がくらんでしまって、神の知恵からたった一字さえ理解することができないからである。」

少し、分かりにくい言葉となっていますが、内容としては、私たちがどれほどの知恵、知識を身に着けたとしても、どれほど頭が良く、賢くなり、どれほどの能力を持とうとしても、その人間的能力によって、信仰を得ることも、神様の御業を理解することはできないということです。先日、一人の方にお会いしたのですが・・・その方の言われた一言を聞いてとても衝撃を受けました。

このような言葉でした。「病気や体が弱いこと、障がいをもって生まれた人は人類の負債(ふさい)を背負っているのだ」という一言でした。その方にはお子さんがおられるのですが、そのお子さんが大きな精神的病に侵されているということでした。また、お孫さんも大きな病気を持たれているとのことでした。だからこそ、自分の子どもや孫が「なんで病気に・・・」という思いから、そのように考えるようになったということでした。「自分の子どもが持つ病気にも意味がある。孫が苦しむことで、誰かが笑顔になっている」と考えられたとのことでした。「人間は罪ある者として、苦しまなければならない。だから誰かが苦しまなければならない。自分の子や孫は、そのような多くの人間の苦しみを背負っているのだ」と言われていました。この方のこの言葉は、心のうちに「子どもが病気に苦しむ中で、せめて何か意味をもっていてほしい」と思われていたからこその言葉だと思うのです。そのこと自体は、親として当然の思いだと思うのです。ただ、私自身、先天的な病気を持つ者ですので、この「障がいや病気は人類の負債(ふさい)だ」という言葉は、とてもショックな一言でした。これは、言葉を変えると、この世的弱さは罪であるということになります。「障がいは負債」。こんなに悲しいことはありません。

 皆さんにとって、「光の子」とは、どのようなことを意味しているでしょうか。この世的に、元気であること、知恵を持ち、力を持ち、強い者として生きることだと考えているでしょうか。私は、知恵を持ち、強く、力を持つこと自体が悪いとは思いません。ですが、神様の目から見た「光」。それはそのような人間的な何かによるものではないのではないかと思うのです。救いの恵みは、人間の何かによって頂くのではないのです。私たちは、ただ神様の一方的な恵み、神様のイエス・キリストによる恵み、その光によって、光の子とされているのです。それが、私たちに与えられた恵みです。人間的弱さは、イエス・キリストの光を輝かせるための恵みです。決して負債ではなく、神様が与えてくださった賜物の一つです。そして、同様に人間的強さや知恵も、イエス・キリストの光を輝かせるためにあるということも覚えておきたいと思うのです。ただ、人間のその力、知恵、富、そのすべては、人間的な輝きを得るためではなく、神様の光を輝かせるための恵みなのです。

 

3:  選び取る人生

今日の箇所では、この、神様の恵みを受け方が示されています。神様の一方的な愛はすでに注がれ続けているのです。そのうえで、確かに神様の愛を受け取り、そして分かち合うこと、共に受け取っていくことが、「信仰に生きる」ことなのです。今日の箇所ではこのように言います。【何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。】(エフェソ5:10)【だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。】(エフェソ5:17

今日の箇所では、神様から与えられている「光」を受け取った者として、「無分別な者」とならずに、「主の御心が何であるかを悟りなさい」と教えます。聖書は、私たちが、主体となった選びとりの行動ではなく、神様が主体となった、光を受け取り、応答する行動を教えているのです。私たちは神様の御心を悟るために、神様に喜ばれるために、吟味して歩みたいと思うのです。それが、私たちの信仰による人生です。神様は私たちに愛を注がれているのです。

皆さんは自分を大切にする理由をもっているでしょうか。また、隣人を愛する理由を持っているでしょうか。「なぜ自分を愛し、隣人を愛するのか」・・・幼稚園の子どもは、大人が想像しないようなことを聞いてきます。少し前のことですが、「先生、天使の輪っかはなんでついてるの?」と聞かれたことがありました。「天使の輪っか・・・?」私も初めて聞かれたことで、なんと答えればよいのか、言葉に詰まりました。同じように、このようなことを聞かれたことがありました。「なんで、友達を蹴ってはいけないの?」、私が「友だちがけがをするかもしれないし、悲しむでしょう」と答えると「なんでけがをさせてはいけないの?なんで???」と言ってきたのです。子どもは「なんで???」「どうして???」と何度も、どこまでも聞いて来ます。「なぜお友だちにけがをさせてはいけないのか」・・・「それが社会のルールで、傷害罪で捕まるから・・・」というのも間違いではないのですが・・・子どもに答える答えとしては、少し違うと思うのです。

なぜ隣のお友だちにけがをさせてはいけないのか。なぜ悲しませてはいけないのか。この「なんで」という答えには、神様という存在がないと答えられないでしょう。私たちは、神様が命をかけて愛してくださった、大切な存在なのです。私たちは、神様に愛されているのです。だからこそ、私たちは自分のことを大切にしなければならないし、同じように隣人を愛さなければならないのです。私たちは、神様に愛されている者として、自分の人生を大切にし、隣人の命を大切にしたいと思うのです。

このことをイエス様も二つの教えとして教えられました。【イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37-40

「神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」。これが、神様の愛に応答する道、「光の子」として生きる道です。神様から愛されている。その愛をつないでいくことが、私たちに向けられた神様の御心なのです。

 

4:  感謝する

聖書は語ります。【霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい】(5:18c-20

私たちは、神様に愛されていること、キリストに結ばれて光のうちに生かされていることを、感謝していきたいと思います。私たちの交わりは、神様への「礼拝」、「祈り」「賛美」のうちにあります。私たちは、神様に、共に「礼拝」し、「祈り」「賛美」し、そして神様に「感謝」していきたいと思います。私たちは、「神の子」「光の子」とされています。私たちは、この神様の光を受けて、隣人と、共に生きることによって、光を分かち合い、さらに輝きを増すものとなっていきましょう。

私たちは、今、主イエス・キリストの光に結ばれて生きています。その光をしっかりと確信して、喜びの中で、受け取り、そして自分自身が光に満たされて生きていきましょう。そして、隣人と共に、交わりの中で賛美と感謝の礼拝を為して、神様に祈って、共に生きていきたいと思います。最後に、ヨハネによる福音書8:12を読んで終わりたいと思います。【イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』】(ヨハネ8:12(笠井元)