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2023.7.9 「傍らに呼び出された助け主」(全文) Ⅱコリントの信徒への手紙1:3-11

 これまで私が説教の当番の時はモーセの「十戒」からのメッセージを取り次いできました。しかし、あまり続けるとお互い飽きてしまうので、「十戒」以外の何か別の箇所からメッセージをと漠然と祈っておりました。すると、ある教会のある牧師のFacebookIIコリント1章の一節が掲げられていました。II コリント1章は今までの説教で間接的に取り上げたことがあったかも知れませんが、今朝は311節を読んでみたいと思いました。

 皆さんは司会者の朗読を聴かれて、あるいは、ご自分でこの個所を読まれてどのような箇所に心を動かされたでしょうか。IIコリント1:3-11では父なる神は「慰めを豊かにくださる神」として描かれています。クリスチャン相互の「慰め」を入れてこの数節に10回の慰めが登場するのです。「慰め」のオンパレードですね。よくぞこんなに「慰め」を繰り返したものです。結局、この手紙の著者であるパウロ自身が「慰め」を必要としていたのかも知れませんし、ある危機を脱して慰めを与えられたのかも知れません。今日のメッセージの焦点はこの「慰め」についてです。

 

1.「パラカレオー」

ここで「慰める」と翻訳されたギリシヤ語は、「パラカレオー」という言葉です。「傍らに呼び出されて共にいること」を意味しています。主イエスについてもIヨハネ2;1で、「弁護者」(パラクレートス)として描かれています。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」ここではキリストご自身が「傍らに呼び出されて一緒にいてくれる弁護者」「慰め主」であると言われています。私たちは、まさに、一人で正しく裁く父なる神の前で立つのではなく、有力な弁護士さんがついているわけです。

また、皆さんすでにご承知であると思いますが、ヨハネ14:1518252715:2616:7では聖霊なる神がパラクレートスと呼ばれています。主イエスが殺される直前、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)と言われ、「私は父にお願いしよう。父は別の「弁護者」(パラクレートス)を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)と約束されました。また、25節には「わたしは、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(14:2527a)と言われています。さらに、15:26にも、「わたしが父のもとから遣わそうとしている弁護者(パラクレートス)、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである」。とあります。続けて、「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者(パラクレートス)はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」とも言われています。十字架で殺されることは聖霊を送るきっかけとなって私たちには良いことであるというのです。

 

2.父なる神も「弁護者」「慰め主」である。

 イエス・キリストはわたしたち、みなさんの傍らにおられてわたしたちを弁護してくださるというのは理解できます。そして、イエス・キリストは死者の中からよみがえられて父なる神の傍らにおられ、聖霊がわたしたちの中に、わたしたちの傍らにおられてイエス様を証し、イエス様と共におれるようにして下さっていることも分かります。しかし、ここで驚かされるのは、父なる神、義と愛において私たちを裁くお方が、「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる(パラクレーセオース)神」(IIコリント1:)と呼ばれ、わたしたちを「慰めてくださるお方」(パラカオーン)(4節)であると続きます。なぜ驚かされるかと言いまますと、正義の裁判官である父なる神がまた、実は「傍らに呼び出されて共に弁護士として望んでおられると言うことです。つまり、私たちの身の回りは「弁護者だらけ」なのです。私たちは決して孤独の中にいるわけではなく、孤独であると感じているとしてもそれは感覚の問題でしかないのです。アウシュヴィッツ(オシフィエンチム)強制収容所から生還した数少ないユダヤ人の一人フランクルは『夜と霧』という本を書いています。理不尽にも多くの人が殺され、あるいが餓死し、また、自死する中でなぜ自分は生き延びたのだろうかと問います。どのような絶望の中でも、自分を愛してくれる人がいる、自分が愛する人がいる、自分は独りではない。一人でも「傍らにいる方がいる」ということが生死を分けた、希望の根拠になっていたのではないかと言っています。アウシュヴィッツの向かいにあるビルケナウの強制収容所の酷さも合わせを考えると、言葉を失う、言葉にならない絶望状態であったと思います。しかし、そのような中で、「傍らに呼び出されたお方」の存在が生きる支えになったのでした。キリスト・イエスと聖霊だけでなく、父なる神も「慰め主、傍らにいますお方」、神は三位一体の神として徹頭徹尾「傍らに呼び出され共にいる助け主」なのです。

 

3.互いに慰め合う

 それでは話を一歩進めてみましょう。慰め主である神の慰めを受けて兄弟姉妹たちが互いに慰め合うことです。パウロは言います。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたち(つまり、パウロ一行)を慰めてくださるので、わたしたちの神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」と言います。そして、6節では「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。」と強調します。そのようにコリントの人々が慰められると今度は、それがブーメランのように帰ってきて、パウロらの慰めになり、それがまたまたコリントの人々の慰めとなると言います。互いに慰め合うブーメラン運動です。また、水に何かを投げると「波紋」が拡がるように「慰めの相互作用・波紋」が拡がるのです。

 

4.苦しみ、悩みの連帯:希望と感謝へ

 IIコリント1章をこの個所を読むと、「慰め」が10回登場するだけではなく、苦難(4節に2回)、そして、悩み苦しみ(6節)、「苦しみ」(6節)、苦しみ(7節)、「苦難」(8節)、「圧迫される」「生きる望みさえ失う」(8節)、「死の宣告」(9節)、「大きな死の危険」(10節)という言葉の登場もまた目立っています。つまり「慰め」とは何か苦しいこと、困難とは無関係であるとかそれらが全くなくなることではなく、「苦難」の中にこそ「慰め」がある、また、苦難めを「共に」味わうことが「慰め」の共有の根拠になっていると強調されています。そしてそのような文脈において「救い」(10節)という言葉が登場します。苦しんでいる者にとって元気な者、幸福な者が慰めの言葉を語るとかえって弱った者たちを落ちこませ、傷つけてしまうことが多いです。うっかり、「あなたの苦しみは理解できるよ」などと言えば「分かるものか!」と言われてしまいます。苦しみ、困難の中にある者の「寄り添い」こそ慰めとなるのでしょう。そして、この苦難の共感共苦と慰めの連帯は、他者と連帯して共感共苦するイエスと、イエスを死者の中から引き上げて下さった神の連帯性に根拠づけられています。ですからまた、苦しみと慰めの繋がりの中で、「希望」(7節)や「感謝」(11節)という言葉さえ語られています。ここに信仰の世界が開けてきます。

 

5.「慰め」と「勧告」

この「パラカレオー」は「慰めること」と「弁護すること」と翻訳されますが、他方、「勧告する」、「勧める」とも翻訳されてもいます。例えば、有名なローマ12:1は「こういうわけで、姉妹兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と言っています。ローマ書は12章以下、キリスト者としての生き方がいろいろ「勧められて」います。「あなたがたを慰めます」と翻訳されても構わないのですが、やはり、文脈としては「勧めます」の方がピタリときます。ここで信仰的に重要なことは、新約聖書では「慰めること」「弁護すること」と「勧めること」は同じ「パラカレオー」なのです。傍らに呼び出されて一緒にいるので、「慰め」にもなり「勧告」にもなるのです。私たちには「慰めること」と「勧告すること」「勧めること」はしばしが真逆に感じられてないでしょうか?「慰め」とは何も言わずに、ただ黙って傍らにいてあげることであるかも知れませんが、時に、「勧告」という少し厳しい指摘もされることになるのかも知れません。ある牧師が私の処にやってきました。ある信徒を訪問したのですが、言葉を失って、何も言わずに帰ってきた。このことを教会員にいうとあなた牧師なのだから仕事をして来い。何か言葉を捜して来い」と言われたそうです。私はそれを聴いて、「厳しいことを言う教会員ですね。何も言わない、言葉が出ないということも立派な対話であると思いますよ」と答えました。まあ慰め、弁護したわけです。彼は、安心したような表情でした。そして、私はひと言、「それでも何か一言、聖書を読むなり、祈るなりしてきた方が良かったと思うよ!」と勧告をしたわけです。信仰の世界は、神であれ、人であれ、まずは、「受けて」、それから「切り返す」ことが必要です。神の赦しの愛の支えと言う共通の基盤に立つ、自らも苦難する者として対話することが大切でしょう。まあ、彼が納得したかどうかは分かりません。とにかく、「慰めること」「勧告すること」は同じ「パラカレオー」=「傍らに呼び出されて一緒にいること、弁護してあげること」に由来していることを記憶しておいてください。

 

6.慈愛に満ちた父なる神

 

 今日のメッセージの結論としては3節が良いですね。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」この神賛美で終わりましょう。神が「ほめたたえられますように」は「ユーロゲートス」で、祝福され、喜ばれますようにという意味です。自分たちよりも神が祝福され、喜ばれますように!なぜなら、この神は「慈愛」の神だからというのです。「慈愛」とは「オイクティルモン」で「はらわたがちぎれるような」というヘブライ語から由来した言葉です。神はそのような共感共苦の父であり、そして、あらゆる慰めの神であるから、ほめたたえる他はないと言います。私たちは「アーメン」と応えましょう。(松見俊)